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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

頭を柔らかくする“補助線”

 すでに新聞報道等でご存知の方も多いと思いますが、創刊時に出版した養老孟司さんの『バカの壁』が、8月5日、ついに100万部を突破しました。新書では過去にも『大往生』(永六輔著、岩波新書)、『「捨てる!」技術』(辰巳渚著、宝島社新書)などのミリオンセラーがありますが、発売4カ月で100万部に到達したのは最速記録なのだそうです。

 ここまで来ると、もはやある種の社会現象と言ってもよく、編集部の手を離れてしまっている、というのが正直なところです。各メディアから「なぜ売れていると思いますか」と質問される機会も多いのですが、編集者には「出版する理由」は答えることができても、「売れている理由」はよくわかりません。自分なりに考えて答えてはいますが、内心ではいつも冷や汗のかきどおしです。
 それでも、一つだけはっきりと言えることはあります。それは、「この本を読めば何がしかの“補助線”が必ず見つかるはず」ということです。誰しも中学や高校の頃、図形の問題が解けずに悩んでいたとき、一本の補助線がヒントになって、目の前の霧が晴れるようにあっさりと正解にたどり着いたという経験があるでしょう。某大手塾の名コピー「四角いアタマを丸くする」ではないですけれども、固定観念でガチガチに固まった頭を柔らかく解きほぐしてくれるための補助線。『バカの壁』には、私たちが陥りがちな「固定観念のワナ」から抜け出すための補助線が随所にあります。
 例えば、私自身が目からウロコが落ちたのは、「万物流転、情報不変」というくだりです。私たちは「日々刻々と変わっていく情報の中で、自分をどう保つかが大事だ」などと考えがちです。しかし、養老さんは「変わらないのは情報であって、むしろ人間は刻々と変わっていく」と説きます。「自分らしさ」などという固定観念にとらわれていた私は、スーッと肩の力を抜いてもらったような気がして、気持ちがずいぶん楽になりました。
 おそらく100万人の方が読めば100万とおりの補助線が見つけられる、そんな本なのだと思います。だからこそ、これだけ広く読まれているのではないでしょうか。

  『バカの壁』が100万部を超えたその8月5日、一方で編集部には悲しい知らせも入りました。5月刊『生活習慣病に克つ新常識 まずは朝食を抜く!』の著者である小山内博さんが、前日、心不全のためにお亡くなりになったのです。77歳という年齢ながら、まだまだ元気に講演などを続けておられた矢先の、突然の訃報でした。
 小山内さんも、固定観念にとらわれない、柔らかい頭を持った方でした。「朝食を抜いた方が身体によい」「冷水浴には病気予防の効果がある」などといった説は、現代の医学界では異端視される考え方かもしれません。しかし小山内さんは、労働科学研究所での長年の研究成果をもとに、確信をもって主張しておられました。その根底には、「文明と人間」に対する透徹した視点があったように思います。農耕社会を営むようになって以来、生物としての人間が抱え込んでしまった身体の変化。それをふまえた上で、「病気にならない身体づくり」に着目されたのです。生前、お話をうかがっていて、「これこそ本当の予防医学ではないか」と思うことがたびたびでした。
 実効性のある予防医学は、医者にとってはありがたくない話ですし、医学界から歓迎されないのも無理のないことかもしれません。しかし、医療費が増えつづける今だからこそ、小山内さんの考え方はもっと注目されてもよいと思うのです。まことに残念でなりません。
 心からご冥福をお祈りいたします。

 さて、柔らかい頭ということでいえば、8月刊の『足元の革命』(前田和男著)にもご注目を。現在、ビジネス・シーンでもゴム底で軽いウォーキング・シューズをお使いになっている方が増えているように思いますが(かくいう私も、毎日ウォーキング・シューズを愛用しています)、本書はスポーツ・シューズ・メーカーであったアシックスが、ウォーキング・シューズ開発に挑んだ20年の闘いを描いたものです。「走るための靴」を作っていた会社が、ビジネスでも使えるような「歩くための靴」の開発に乗り出すには、大胆な発想の転換がありました。彼らがどんな補助線を見出したのか。是非、ご一読いただきたいと思います。
 柔らかい発想、柔軟な思考のためには、遊び心が不可欠です。逆説的なようですが、研究が何かの手段になってしまうと、研究そのものも成就しにくい。研究や学問もビジネスも、それそのものを純粋に楽しむなかで、ブレイク・スルーが生まれるものです。ちょっと遅めの夏休みで充電をとお考えの方には、『道楽科学者列伝─近代西欧科学の原風景─』(小山慶太著、中公新書)をお薦めします。やっぱり何事も基本は楽しむことですね。
 そういえば、小山内さんも、人生そのものを最後まで楽しんでおられたように思います。「人間は健康のためだけに生きるのではない。いい人生を送るために健康であった方がいいという程度のこと」「酒やタバコは身体に悪いに決まっている。でもそれをやめてまで健康になって、何が楽しいのか」――そうおっしゃいながら、四十年モノのスコッチをふるまってくださった姿が目に浮かびます。
 ある種の諦観と、前向きさと、温かさを併せ持った方でした。合掌。

2003/08