ホーム > 新潮新書 > 新書・今月の編集長便り > 見えない相手、見えない死

新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

見えない相手、見えない死

 イラクでの日本人人質事件は全員が無事解放され、ひとまず解決しました。それ自体はまことに喜ぶべきことですが、今回の事件ではいろいろ考えさせられたことも事実です。各紙誌で山のような検証記事が出るでしょうが、私も個人的に感じたことを少々。
 まず実感したのは、テレビというメディアが作り出す異様な「場」の広がりです。アルジャジーラを使った「犯行声明」に始まって、日本政府の対応や人質の家族の一挙手一投足がテレビを通じて、世界中に流れていく。市民運動のデモや街の声まで映している外国の放送局までありました。そうした映像が「日本側の情報」として犯人たちにも伝わり、犯人の意思決定や行動にも影響を与えていく――。これは恐ろしい時代になったものだと、つくづく思いました。

 政府関係者も人質の家族も、たとえて言えば、野球場のど真ん中のステージに立って、観客の中に紛れ込んでいる犯人に呼びかけているようなものです。犯人を意識して喋るのは当然ですが、しかし迂闊なことを言えば観客からブーイングが起こる。場合によっては、次の犯行まで誘発しかねない。直接の対話でもなく、かといって不特定多数に向けた語りかけでもない。なんとも言いようのない、アンバランスで捻じれたコミュニケーションの空間がそこにはあります。
 しかもテレビ報道の映像は、しょせんは「切り取られ、編集されたもの」でしかない。それがメッセージとして見えない相手に伝わってしまう怖さ。例えば「あんな奴ら好きで行ったんだから、殺されても文句は言えないよ」とか、あるいはアラブ人を蔑むような街の声だけがフレームアップされて、イラクで報じられたとしたら……。
 メディア・リテラシーなどとよく言われますが、言語が国によって違うように、メディアに対する姿勢、メディアについての「文法」も国によってまったく異なります。「そんなのどうせ一部の声だろう」と判別してくれるとは限らないのです。
 これだけ世界が不安定ないま、おそらくこの種の事件は絶えることはないし、日本人が巻き込まれるケースはむしろ増えるような気がします。その時に死命を制するのは、その国の人々にとっての「日本像」ではないでしょうか。従って我々はまず各国のメディア状況を把握した上で、それぞれの国のメディアに映った「我が身の姿」を知っておく必要がある。メディアという鏡は、必ずしも正確な像を映すとは限りません。極端に歪んだ鏡かもしれない(そもそも、よその国なんですから正確なわけがない)。むしろそれだからこそ、その「歪み方」を知る必要があるのです。
 1月に刊行した『日本はどう報じられているか』(石澤靖治編)は、まさにそうした問題意識に立って編集した本です。今回も犯人側から「日本人はヒロシマ、ナガサキの犠牲者なのだから」といった趣旨のメッセージが発せられましたが、なぜこのような論理が出てくるのか。本書に収められた池内恵さんの論考「アラブは『ヒロシマ』をどう理解したか――通じない『戦後平和主義』」をお読みになれば、疑問が氷解するはずです。

 さて、今回の事件でもう一つ感じたのは、捕らわれた人たちの「覚悟」についてです。戦地イラクに赴くからには、当然ながら死ぬ可能性はかなりの確率であります。彼らは「自らが死ぬ可能性」をどこまで意識していたのでしょうか。解放された後のうろたえぶりを見るにつけ、自分だけは死なないつもりでいたのではないかという気がしてなりません。
 私はなにも彼らの行動を否定するつもりはありません。フリーランスのジャーナリストやカメラマンであれば、いま一番ホットな現場に行きたいと思うのは当然です。あるいはまた、戦禍で苦しんでいる人たちの役に立ちたいという気持ちも立派だと思います。そのこと自体は、まことに健全な野心の表れだと思うのです。しかし、そこには「死」というリスクが常に付いて回ります。果たして、それを秤にかけて、「死の可能性」を織り込んだ上での行動だったのでしょうか。
 事件発生以来、国内では「自己責任」という言葉が飛び交いましたが、これも不思議な光景でした。自分から戦場に飛び込んで行く人の行動が、自己責任であるのは当たり前のことです。それをことさらに言わなければならないほど、いまの日本社会はどこかが鈍くなってしまっている。何かが失われてしまっているのです。
 1973年、カンボジア内戦の取材中に26歳という若さで散ったフリーカメラマン、一ノ瀬泰造さんが残した文章を読むと、それを痛感させられます。
「危険は承知だ。人と同じ道を歩んでは勝てない。命を賭ける価値が無いか、どうかは自分で判断する。常に命を賭けて取り組みたいし、その時が一番幸せである」
「足が完全に治ったら、もっともっと激しい戦闘を撮ります。来年のキャパ賞いただきです」(『地雷を踏んだらサヨウナラ』講談社文庫より)
 死と隣り合わせの自覚。自らの行動をすべて引き受ける覚悟。そして、死を賭してまで名声を得たいという真っ直ぐな野心。死の危険すらどこか愉しんでいるような大らかささえ感じられます。その根底にあるのは、どうせ人間は死んでしまうのだから、という明るい諦念と、それゆえのバイタリティなのではないでしょうか。
 今回の事件を見ていて思うのは、人質となった人たちにも、それを受け止める日本社会にも、こうした「死と向き合う感覚」がなくなっているのではないか、ということです。「死」が遠いから、戦場に向かう際の覚悟が足りない。戦場で人が拘束されただけで社会が過剰に反応してしまう。
 なにしろ、イラクで吊るされたアメリカ人の凄惨な死体も、人質たちが刃物を突きつけられている写真も、「残酷だから」と新聞が載せない国ですから……。

 もう書店に並んでいますが、今月刊行した養老孟司さんの『死の壁』は、現代の日本社会が無意識のうちに遠ざけてしまっている「死」の問題について、あらゆる角度から考えた本です。死から目をそむけ、見ないふりをしてきた結果、どんな社会になってしまったか。本書を読めば、現代の日本を蝕んでいるものの正体がはっきりと見えてきます。そして不思議なことに、本書を通して死を考えれば考えるほど、生きる力も湧いてくるのです。『バカの壁』をお読みになった方も、そうでない方も、ぜひ手にとってみてください。
 新潮新書は今月刊で創刊1周年を迎えました。2年目も知的刺激に満ちた本を続々と出していきます。ご愛読のほど、どうぞよろしくお願いいたします。

2004/04