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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

地に足をつける

 カフカスといえば日本人にとっては遠い地域ですし、私も実際に行ったことはないのですが、グルジア(北オセチアに隣接)の少数民族であるアブハジア人と一度だけ話したことがあります。1991年、ソ連崩壊を前にモスクワを取材で訪ねたときのことです。
 私は彼に「あなたはグルジアの独立に賛成か」と質問してみました。彼はちょっと考えて、こんなふうに答えました。
「私は反対だ。グルジアが独立すればグルジア人中心の国ができ、アブハジア人の待遇は今よりも悪くなる。カフカスにはいろんな民族がいるし、どんなふうに国境を引いても、そのエリアの中に必ず少数民族ができてしまうのだから、キリがない。それに、独立して経済的にほんとにやっていけるのか。大事なのは、とにかく安定して、経済的にうまくいくことだ。今のままのソ連でいいとは思わないが、独立すればいいというものではない……」
 彼はアブハジア人の中ではエリートで、公的な仕事に就いていましたから、多少は割り引いて考える必要があるかもしれません。しかし、熱にうかされたような空気の中で聞いた彼の冷静な発言は、今でも強く印象に残っています。

 北オセチアで起きたチェチェン過激派によるテロには、その卑劣さ、非道さに心底、憤りを感じます。と同時に、薄気味悪さというか、戦慄を覚えざるを得ません。
 チェチェンとロシアの200年にわたる因縁や、エリツィン政権以来の抗争の経緯はあるにしても、もはやここまで来ると「独立戦争」どころではない。こんなことをやれば国際世論は敵に回すし、民心だって離れてしまうのに、なぜ彼らはこんな挙に及ぶのか。
 犯人グループがアルカイダなど国際組織とどのくらい関わりがあるのかまだ分かりませんが、気になるのは彼らの現実感覚の希薄さです。9・11テロの時にも感じたことですが、彼らには何をどうしたいという具体的な目標も、そこに至る道筋の青写真もない。観念の化け物というか、手前勝手な妄想に突き動かされているようにしか思えません。
 民族紛争というと、つい「積年の」という形容詞を連想しがちですが、目の前で起きていることは、あくまで現代の、同時代を生きている人々によるものです。もちろん歴史的な背景があるのは当然ですが、行動のロジックそのものは現代のものです。私はこうしたテロに見られる「現実感の希薄さ」「観念の暴走」には、何やらオウム真理教によるテロ事件や神戸の少年Aの事件と共通する臭いを感じてしまいます。

 この週末、そんなことを考えながら沈鬱な気持ちでテレビを観ていると、対照的にとても勇気を与えられるような番組に出会いました。TBS「世界ふしぎ発見!」の4日放送分で、生涯を異国での農業技術支援に捧げたある日本人のことを取り上げていたのです。
 西岡京治さんというその方は、大学で農業を学び、1964年に奥さんとふたりでブータンに農業技術の指導者として渡ります。以来、稲作の仕方や野菜の栽培技術の普及に務め、亜熱帯林の開墾もブータンの人々と共に成し遂げ、食糧の増産、供給安定を実現させます。後には国王から「ダショー(最も徳のある人)」の称号も与えられるなど、ブータンの人々に感謝されながら、1992年、この地で亡くなります。
 クイズ番組形式ですから、この西岡さんがなぜブータンに赴かれたのか、そのあたりの動機や経緯についてはよくわかりませんでしたが、とにかくその生き方や仕事ぶりには心を打たれました。日本の援助というと、おカネだけとか、あるいは開発型のイメージがありますが、こんなふうに現地の人たちの本当に役に立つような、地に足のついた援助の仕方もあったのですね。しかもそれを、何十年も住みながら、ほぼひとりで成し遂げた方がおられたとは……。日本の原風景を思わせるブータンの風景とともに、いろいろ考えさせられる好番組でした。

 観念が先走るとロクなことにはなりません。それは日本だって、さんざん経験しているはずです。やはり地に足をつけて生きるしかない。つくづくそう思います。

 さて、9月刊のご案内を。
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2004/09