新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

90冊と1748冊

 今年2月に刊行した『関西赤貧古本道』のなかで、著者の山本善行さんは「古本屋の百円均一」の愉しみを、こんなふうに書いています。
「均一台の、古本屋さんが見限った本のなかにも興味深い本、貴重な本があって、宝さがしにも似た発見があるので、楽しくてやめられないのだ」
 私も古本屋の前を通ると、つい均一台を覗いて、掘り出し物はないかと漁ってしまうクチなのですが、先日、ある古本市の均一台で「宝」を見つけました。文庫や新書が並んでいるところに、講談社現代新書の創刊初期のものが数冊置いてあったのです。

 ご存知のように現代新書はちょうど40年前の1964年に創刊されました。私たちの年代にとっては、イラスト入りのクリーム色の装幀と相まって、物心ついた時からすでに一つのブランドになっていたように思います。ただ、現代新書も創刊時の装幀はまったく違うものでした。私もそれは知識としては知っていたのですが、現物を手にしたことはなかった。その装幀のものに古本市でたまたま出会えたのです。思わず全部買ってしまいました。
 現代新書の創刊時の装幀は、アーチ型の白い縁取りの中央に濃い赤が敷いてあり、そこに白抜きでタイトルが入れてあります。色使いはともかく、岩波新書や中公新書に近いイメージです。そこにかつての中公新書と同様に、ビニールのカバーが巻いてある。さらに、「天アンカット、スピン付き」(本の上をカットせずに、紐を付ける贅沢な作り方。新潮文庫は今でもそうです)というかつての岩波新書に近い造本になっています。やはり当時は、「教養新書」としての一つのスタイルがあったのですね。
 40年前を知る方々にとっては当たり前の話かもしれませんが、1960年代という時代の空気が感じられて、私はとても新鮮な思いで手に取りました。

 その現代新書が、今月からさらに装幀が一新されました。クリーム色のカバーに慣れ親しんで来た一読者としては驚きでしたし、個人的には高校時代に目録をチェックしながら本棚に揃えていった愛着のある新書ですので、ちょっと寂しい気もいたします。
 しかし、そういう読者が多いことも承知の上で、33年続いたイメージをあえて捨てて、新しいブランド作りに挑んでいかれるその姿勢には頭が下がります。
 ひとたび定着したスタイルを、自らの手で壊していくのは、とても勇気がいることです。目の前に並んだ三種類の装幀を眺めながら、本と時代、そして編集者の仕事と、いろいろ考えさせられました。

 現代新書が創刊された1960年代前半は、戦後の出版史において、「新書」がもっとも乱立した時代です。新書というスタイルを生み出したのは1938年創刊の岩波新書ですが、戦後、1954年にカッパ・ブックスが創刊され、第一次の新書ブームが起きます。そして中公新書(1962年創刊)、現代新書が登場した1960年代に、各出版社がこぞって新書分野に打って出るのです(新潮社や文藝春秋も、このとき一度新書判のシリーズを出しているほどです)。
 ここ数年の状況を出版ジャーナリズムの世界ではよく「新書戦争」と表現しますが、むしろこの1960年代の第二次ブームこそが新書戦争と呼ぶにふさわしい状況でした。その中で読者を得て定着したのが中公新書と現代新書であり、パイオニアの岩波新書と合わせて、「御三家」と呼ばれてきたわけです。
 そうした長い歴史を振り返れば、新潮新書なぞ、たった2年目の新参者に過ぎません。岩波新書を長老だとすれば、中公新書、現代新書が壮年、今年10年目に入ったちくま新書でも青年といったところでしょうか。新潮新書は、まだまだほんの子供です。
 先輩との年齢差を埋めることはできませんが、大先輩たちでさえどんどん新しい試みに挑んでおられるわけですから、若輩としては恐いもの知らずで、もっともっとチャレンジングにやっていかなければと思います。

 現代新書はこの10月刊で1748点、中公新書は1770点。岩波新書にいたっては今の新赤版だけで918点。黄版から新赤版に移った1988年の時点で確か1500点を超えていたはずですから、まもなく2500点になります。
 一方、新潮新書は10月刊を含めてようやく90点……。先輩たちは山脈のようにそびえ立ち、こちらはまだ歩き始めたばかり。なんとも気が遠くなりますが、それだけ成長する余地もあるということですので、どうか今後とも暖かく見守っていただければと思います。
 さしあたりの目標は目の前の100点目。さて、仕事しなきゃ。

2004/10