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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

100年前の日本人

 今年は戦後60年ということで、各メディアで戦争を再検証したり、あるいは戦後日本の軌跡をたどったりという企画が相次ぎました。新潮新書でもこの夏、『あの戦争は何だったのか―大人のための歴史教科書―』(保阪正康著)、『戦後教育で失われたもの』(森口朗著)、『1985年』(吉崎達彦著)などを刊行し、いずれも好評をいただきました。

 切りのいい数字にこだわるわけではないのですが、今年はまた1955年の保守合同(11月15日、自由民主党結成)からちょうど50年、さらに1905年の日露戦争・ポーツマス条約調印(9月5日)からちょうど100年でもあります。メモリアルイヤーの締めくくりにふさわしく、今月はこの50年前と100年前の出来事に独自の角度からアプローチした2つの作品が並びました。

 まず『満州と自民党』(小林英夫著)は、1955年の保守合同に「満州」という補助線を引くことで、これまでとは違う歴史の読み方を提供したものです。
 戦後世代にとっては、どうも昭和20年の8月を境に日本全体がリセットされたようなイメージがありますが、もちろん実際にはそんなわけはありません。戦前と戦後は当然ながら連続しています。それどころか本書は、戦後日本が満州といかに“地続き”であったかを明らかにしていきます。戦後の高度成長は、じつは満州国で行われていた統制経済がもとになっており、著者の小林氏は「満州人脈を語ることなくして戦後日本社会を語ることはできない」とさえ記しています。
 例えばかつて満州では、世界有数のシンクタンクともいうべき満鉄調査部に様々な人材が集まっていましたが、本書によれば戦後の経済復興の司令塔となった経済安定本部(後の経企庁)はこの満鉄調査部をモデルとし、人的にも満州帰りが中枢を占めていたといいます。こうした布陣から生まれたのが傾斜生産方式をはじめとする統制型の復興政策で、つまり戦時下の政策プランが戦後復興の“基礎工事”に使われたわけです。そしてその総仕上げとなったのが保守合同でした。政党政治による安定政権という、開発独裁とは違った理想的なスタイルを確立することで、高度成長への道筋が用意されたのです。
 小林氏はこの間のキーパーソンとして、戦前はエリート官僚として満州に関わり、戦後は代議士に転じて保守合同を推進した岸信介に注目します。一般的に高度成長といえば池田内閣の所得倍増計画の帰結と思われがちですが、小林氏はむしろ「日本株式会社の創業期は岸内閣で終わった。後は完成された会社をどう運営していくかという問題だけだった」と位置づけています。
 むろん今の自民党には昔日の面影はありませんが、いかにして自民党が誕生したかという戦中戦後史として読んでいただければと思います。

 もう一冊の『日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記―』(田畑則重著)は、日露戦争で日本の戦費の四割を引き受け、日本の勝利に貢献したアメリカの投資銀行家、ジェイコブ・シフの実像に迫りながら、日露戦争の知られざる側面に光を当てます。第一章ではこのドイツ系ユダヤ人の生涯をたどり、第二章では、日露戦争後、明治天皇の招待を受けて来日した際の滞日記を一挙掲載しています。日記は1906年に私家版として出されたまま埋もれていたものを、著者の田畑氏が発掘し、翻訳したものです。
 近年、欧米の研究者の間では、「第0次世界大戦としての日露戦争」という考え方が出てきているそうですが、確かに本書を読めばその考え方に納得がいきます。日露だけにとどまらず、英・仏・米・独・中・韓を巻き込んだ合従連衡。大量の兵器を消費し、大軍を動員する規模の拡大。それによって生じる多額の戦費調達、兵站の難しさ。情報・宣伝戦の本格化……。シフの動きを追う中で浮かび上がるのは、「東洋の小国がロシアという大国に挑んだ戦争」にとどまらない、一大国際紛争の姿です。
 これまでは『高橋是清自伝』に依拠して、「高橋がロンドンに戦費調達に行った際、パーティの席でシフに偶然出会った」とされてきましたが、最近の研究成果を総合すると、その出会いもシフの側から仕組まれたものだったようです。ウォール街を代表する投資銀行家としてアメリカ大統領に直言できる立場にあり、またイギリスのロスチャイルド家とも親しかったシフは、全米ユダヤ人協会の会長も務めていました。当時のロシアはユダヤ人差別が激しく、シフはそれを強く批判しています。ビジネスとしてだけではなく、ユダヤ人としてのロシアへの反発がシフを日本支援に動かしたのです。
 しかし本書の面白さはそれだけではありません。じつはその先の「後日談」がまことに興味深いのです。戦争後、日本はロシアから満鉄の権益を得ますが、国家財政の危機にあえいでいた日本では、満鉄を売却すべしという意見も強かった。その売却相手として名乗りを上げたのが、シフの盟友であったアメリカの鉄道王ハリマンでした。ところがそこに、ハリマンの仇敵、モルガン商会が大統領を通じて待ったをかける。日本政府内は二分され、日米にまたがる権謀術数と熾烈な綱引き……。
 この「商戦」は、シフ=ハリマン連合の敗北に終わりますが、もし彼らが勝っていたら、日本の満州経営はまったく違ったものになり、当然ながら日本のその後の歴史は大きく変わっていたはず。というわけで、この2冊を併せてお読みいただくと、日本近代史のもう一つの面が見えてくるのです。

 それにしても、シフの日記を読むと、百年前の日本人の気高さ、凛々しさが伝わってきます。シフは桜満開の公園や日本の自然に感嘆しながら、日本人の規律正しさ、他人への接し方、精神の豊かさを称賛しています。彼と親しく接した要人たちのみならず、道行く先で出会った民衆の振る舞いが彼の心をとらえたのです。シフは親友のイギリス人銀行家に、日本からこんな手紙を書いています。
「ひとびとには大いなる知性があり、産業があり、慎み深さがある。(中略)巨大な労働力があり、開発の緒に就いたばかりの豊富な水力発電があり、会社の創業に際しての真剣さを見るかぎり、この国には、新たな発展を遂げる偉大なる未来が待ち受けていることは疑いない」
 日本はこの40年後に敗戦を味わい、そしてさらに60年が経ちました。そう区切って考えると100年という時間は意外に短い。しかしその短い時間で、日本人はあまりにも多くのことを失ってしまったのではないかと痛切に思います。
 今月刊の『国家の品格』(藤原正彦著)が、おかげさまで発売直後から圧倒的な人気で、印刷が間に合わないほどです。日本の近代史に思いを馳せながら、なるべく多くの方に読んでいただきたいと、心から願っています。

2005/11