新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

青雲の志

 新潮社といえば、よく「老舗の出版社」と形容されます。確かに創業は明治29年(1896年)、来年が110年目ですので古いと言えば古いのですが、歴史ということでは吉川弘文館(安政4年)、有斐閣(明治10年)、春陽堂(明治11年)など、もっと古い出版社もあります。明治20年創業の博文館に至っては、当時すでに数多くの雑誌や書籍を出版し、出版史上「博文館時代」と呼ばれる一大ブームを起こしています。明治の出版史の中に位置づけると、新潮社はいわば「遅れて来た存在」なのです。しかし私はむしろその「遅れてきた」という側面、社名に「新」と付いているところにこそ妙味があると思っています。
 新潮社の創業者・佐藤義亮は、明治11年、秋田県角館に生まれました。高等小学校を卒業後、秋田市に出て師範学校に入る受験勉強をしているうちに文学、言論の魅力にとりつかれ、明治28年3月、親に無断で上京します。この時、義亮は数え18。身寄りも何もない義亮は印刷所の職工や校正係で糊口をしのぎながら、出版業や印刷業を勉強。間借り先のおかみさんから資金援助をしてもらって、翌29年、雑誌『新聲』を創刊します。これが今につながる新潮社の始まりです。
 実を言えば、義亮が当初名乗っていた社名は、雑誌と同じ「新聲社」でした。『新聲』の評判は上々で、書籍出版も軌道に乗っていたのですが、書店・取次から肝心の売り上げ代金を払ってもらえず、本が売れているのに経営難という事態に陥ります。万策尽きた義亮は雑誌もろとも新声社を譲渡。その譲渡益もまた盗まれたりするのですが、ともかくなんとかもう一度資金を調達して、明治37年『新潮』を創刊、新潮社という社名で再起します。むろん実態としては義亮の出版活動は『新聲』から連続していますので、明治29年を新潮社創業の年としているわけです。

 それにしても、義亮はなぜ「新聲」「新潮」と、「新」にこだわったのでしょうか。
 先頃、『新潮社一〇〇年』(非売品)という社史が刊行されました。そこに再録されている義亮の「新声発行の辞」を読むと、「新」という言葉に込められたあの時代の空気と青年の気概がひしひしと伝わってきます。かなり長い文章ですが、例えばこんな一節。
 ――日清の役は只戦争の「序幕」たりしのみ、波瀾万丈の「大切」は将に来らんとするに非らずや。「序幕」は現代の国民によりて演せられたり、知らずに将に来らんとする「大切」は、青年諸子を措いて誰か之に衝るものぞ。……(中略)来れ満天下の青年諸子、来て提携誘掖吾人の志を成さしめよ、『新声』は実に諸子の為めに生れたるものなり。諸子をして諸子の面目を全たからしめんとするものなり。諸子は知らん、題して『新声』と云ふもの亦実に新国民の声と云ふの意なるを。――
 義亮が秋田市で勉強している頃は、ちょうど時局が風雲急を告げ、清との間で戦端が開かれようとする頃でした。一方で文壇では新進作家、知識人が続々と登場。日清戦争が始まると、新聞雑誌は彼らを特派し、報道はさらに活気を帯びます。義亮も博文館の投書雑誌にさかんに投稿していたようですが、そのうち居ても立ってもいられなくなり、上京に至るのです。まさに「青雲の志を抱いて」の上京でした。そして、何かを表現したい、何かを世に問いたいという強い思いに突き動かされるようにして、数え19歳で『新聲』を創刊するのです。
 昭和11年に刊行された『新潮社四十年』という社史を見ると、徳田秋声が「蹉躓と成功」と題した寄稿文の中で、「その名に背かず、『新聲』が新興ヂヤアナリズムの先驅であつたことに疑ひはない」と書いています。義亮は、憲法が制定され、帝国議会が動き始めた明治20年代に少年期を送り、「新しい時代」「新しい国家」を仰ぎ見ながら、「新しい文学」「新しい言論」の創出を目指しました。それはまた、自らの栄達の道とも重なっていたのです。その意味でも、まさしく近代日本の申し子だったといえるのではないでしょうか。

 社史を読んでいて興味を惹かれたのは、義亮の処女出版が田岡嶺雲の『嶺雲搖曳』(明治32年刊)という評論集だったことです。嶺雲は明治3年、高知生まれ。明治27年に東京帝大(漢文科選科)を卒業し、評論活動を始めますが、若き花形の論客として当時の青年たちに影響を与える存在でした。『新潮社四十年』に収められた義亮の「出版おもひで話」を読むと、義亮は嶺雲に傾倒しており、自ら乞うてこれを出版したのだと書いています。ちなみに義亮も『新聲』を創刊した後、帝大漢文科選科で勉強したかったそうですが(実際は雑誌を続けるために断念)、それも嶺雲の影響があったのかもしれません。当時の帝大は、「新しい知」がもたらされる場所であり、青雲の志をもって東京を仰ぎ見た青年たちにとっては、栄達への入り口として映っていたのではないでしょうか。
 今月刊の一冊、★『東大法学部』(水木楊著)を読むと、当時の東大(帝大)の位置づけがよくわかります。本書では、嶺雲と同じ明治3年に越後長岡藩に生まれた小野塚喜平次(日本の近代政治学の祖と言われ、吉野作造や南原繁を育てた人物。後の東京帝大総長)に触れていますが、小野塚は「明治政府の専制的傾向と薩長万能の弊に対して頗る不平でありました」と回想に記しています。つまり、当時の東大法学部は、薩長のコネのない野心あふれる青年たちがのし上がるための「もう一つの門」であり、近代国家建設のために有為の人材を発掘し、維新で薩長に傾いた社会のバランスを平準化していくための装置でもあったのです。
 水木さんは本書で、明治の設立以来、日本の近代史の中で東大法学部がどのような役割を果たして来たかをたどっていきます。東大法学部は初めから官界、政界への「予備校」であり、巨大なる「公共事業」でした。それは確かにこの百年余のそれぞれの時代に応じて機能してきたのです。しかし今も本当に我々の税金で官僚養成の予備校を維持する必要があるのか、日本社会の変化と共に東大法学部の役割は終わりつつあるのではないか――水木さんはそう問いかけます。大学教育のあり方、またエリートとは何かということを考えるヒントとしても、ご一読いただければ幸いです。

 他の3冊をご案内しますと――。
★『自爆テロリストの正体』(国末憲人著)は、9・11以降、各地で頻発するイスラム系自爆テロの「本当の原因」に迫ります。日本ではともすれば「貧しく純粋なテロリスト」とか、あるいは「イスラム教徒による宗教戦争」などという解説がなされがちですが、彼らの生い立ちや生活を追うと、まことにしょうもない「自分探し」でテロリストに転ずる若者たちの姿が見えて来ます。メディアによって作られたイメージを剥ぎ取る、力の入ったルポです。
★『「小皇帝」世代の中国』(青樹明子著)。こちらは、中国の「新しい反日」の主役ともいうべき「一人っ子世代」の若者たちを追ったルポ。「6つの財布」で何不自由なく育ち、すでに先進国病にかかっているともいえる「小皇帝」たち。我々が今後、相手にしていくのは彼らなのです。現在の日中問題の本質は、日中世代間問題なのではないかと思えてきます。
★『ろくろ首の首はなぜ伸びるのか―遊ぶ生物学への招待―』(武村政春著)は、ケンタウロス、ドラキュラ、モスラ、人魚……古今東西の架空生物の身体の構造を、最新生物学の知識を総動員して解明した、大真面目な試み。『フューチャー・イズ・ワイルド』や『平行植物』など、「架空生物博物学」がお好きな方には、まことに堪えられない一冊です。

 今年最後の「編集長便り」も、また長くなってしまいました。このところ、10月刊の『人は見た目が9割』(竹内一郎著)、11月刊の『国家の品格』(藤原正彦著)など、おかげさまでたいへん好評をいただいております。未読の方は、年末年始のお休みに是非どうぞ。ちょっと早いですが、皆さま本年もご愛読ありがとうございました。よいお年をお迎えください。

2005/12