新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

品格ある国

 なぜか思ったほど騒ぎになっていませんが、最近の出来事で愕然としたのが明治安田生命の「保険金不払い事件」です。新聞報道等によれば、昨年度までの5年間で1053件、総額52億円の不当不払いが見つかり、このほかにもガン患者への割り増し給付金の不払い、保険募集の際の違法営業も発覚。会社ぐるみの悪質な事例ということで、金融庁は業務停止命令を出し、同社の経営陣も総入れ替えとなりました。
 要は保険金を払う際に難癖を付けて保険金を払わず、支払額を減らすことによって会社の利益を上げようとしたわけです。かねがね「いざとなれば保険会社は保険料を取り逃げするんじゃないか」という気はしていましたが、まさか本当にこんなことをしていようとは……。これはいわば「保険金詐欺」ならぬ「保険料詐欺」。金融庁マターで終わらせるのではなく、刑事事件としてきちんと捜査すべきことなのではないでしょうか。

 保険金の不当不払いが許せないのは、保険会社側の「死人に口なし」という態度が透けて見えるからです。当たり前のことですが、私たちが保険に加入するのは「もし自分に何かあった時に、せめて家族が困らないように」と考えてのことです。だからこそ毎月毎月、決して安くない保険料をコツコツと払っている。それを死んだ後で、「書類がおかしい」だの「自殺の疑いがある」だのと難癖を付けられては、たまったものではありません。そんなに払いたくないのであれば、死ぬ前に言って欲しいものです。不当不払いは、「死人に口なし」をいいことに、死んだ人間の隙に付け込む極めて卑劣な行為だと思います。
 もちろん今回の明治安田生命の事例はあくまで特殊なケースではあるでしょう。こんなことが会社ぐるみで頻繁に行われていては、生命保険というシステム自体が破綻してしまいます。しかし、金融庁の検査では、他の生保会社(38社中の31社)にも、合計435件、約20億円の不当不払いがあったそうです。明治安田生命は突出しているとしても、他社も純白ではない。生保業界では不払いがけっこう日常的だともいえるのです。
 契約を取る時にはあんなに美辞麗句を並べ立て、書類なんか適当でいいですよという感じなのに、いざとなったら払わないというのは、死者の財布に手を突っ込むにも等しい。正直者がバカを見るというか、人の弱みに付け込むという意味では、独居老人を騙して金を巻き上げる悪徳リフォーム業者と大差ありません。
 どうも書けば書くほど腹が立ってきて、直截な物言いになってしまいました。別に生命保険そのものに恨みがあるわけではないし、あくまで個人的見解ですので念のため。

 明治安田生命といえば明治生命と安田生命が合併してできた会社ですが、同社のホームページによれば、明治生命は明治14年創業の日本初・日本最古の近代的生保会社、安田生命は明治13年に誕生した日本初の生命保険組織、なのだそうです。どちらを取るにしても、日本で最も伝統と格式のある生保会社であり、業界の顔といってもいい。それがこんな詐欺まがいの行為に手を染めるとは、まことに堕ちたものだと思います。企業ですから利益を上げなきゃいけないのは当然ですが、こんなことをやってまで数字あわせをしたいのでしょうか。腹立たしいというより、情けなくなってきます。
 この事件に限った話ではありません。最近特に、「そこまでやるか」と感じる出来事が増えているように思います。政治家の言動、新進経済人たちの振る舞い……何かこう、背筋が伸びていないというか、物欲しげというか、さもしいというか。「矜持」、あるいは「武士は食わねど高楊枝」という言葉は、もはや死語になってしまったのでしょうか。

 今月刊の★『国家の品格』(藤原正彦著)は、「今の日本は何かが違う」と感じておられる方に、ぜひ読んでいただきたい一冊です。
 著者の藤原正彦さんは、新田次郎、藤原てい夫妻の子息であり、『若き数学者のアメリカ』などのエッセイでも知られる数学者ですが、近年は日本社会の行く末を憂い、折に触れて様々な示唆に富む提言を発してきました。本書はそうした思索の集大成であり、まことに柄の大きい、堂々たる論考になっています。
 藤原さんは数学者でありながら、まずは「論理と合理」という欧米の基本思想が本来的に抱えている限界を説き、世界の至るところで社会の荒廃が進んでいる理由、欧米型の文明の行き詰まりを鋭く抉ります。そして、限界に達した欧米型文明に代わりうる新たなるスタンダードとして、世界で唯一の「情緒と形の文明」ともいうべき日本型文明の可能性を問いかけていきます。
 例えば、豊かな四季によって育まれた日本の自然観の方が地球環境を守るのにいかに貢献できるか。例えば、武士道精神の根幹である「惻隠の情」がどれだけ社会に安定と幸福をもたらしてきたか……。藤原さんは、日本はその独自の国柄を見失ってしまったために、人心も荒廃し、「品格のない国」になっている。今こそもう一度、世界に誇る「情緒と形の国柄」を取り戻すべきだ、と説きます。
 私は一読して、その壮大な「絵」に打たれました。と同時に、ご自身の体験に基づいた洞察が随所にあって、心の中で何度も頷きながら読みました。国際化の時代だからこそ、英語よりも国語が大事であること。父の新田氏から薫陶を受けた「卑怯を憎む心」の大切さ……。これまでにない、まことに斬新な日本論であり、日本人として力が湧いてくること請け合いです。ともかく読んでみてください。

 他の3冊も力作が揃いました。
★『満州と自民党』(小林英夫著)は、戦後日本がいかに「満州」と地続きであったかを浮かび上がらせます。満鉄調査部と戦後の経済安定本部や通産省が、人的にも政策的にもいかにつながっていたか。1955年の保守合同の意味とは何か。自民党結党50年を機に、戦後史にもう一つの光を当てます。
★『日露戦争に投資した男―ユダヤ人銀行家の日記―』(田畑則重著)は、日露戦争の日本勝利に多大な貢献をしたアメリカの銀行家、ジェイコブ・シフの生涯を紹介します。戦争後、明治天皇から招待され日本に滞在した時の貴重な日記も著者が発掘、全文翻訳して掲載しました。もちろん本邦初公開です。
★『知床に生きる―大船頭・大瀬初三郎とオホーツクの海―』(立松和平著)は、北の海に生きる「海の男」を通して、世界自然遺産の驚くべき現在を描きます。そこに生活するものしか知らない圧倒的な自然。そして、都会の目線に立った観光型自然保護の逆説的な帰結。自然というものの奥深さと難しさを感じさせる、味わい深い一冊です。

2005/11