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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

SFが輝いていた時代

 もう20年ほど前、新入社員として週刊誌に配属された時の話です。歓送迎会の二次会で、銀座の文壇バーといわれるところに連れていかれました。もちろんそんな店は初めてでしたし、編集長やらデスクやら大先輩方が一緒でしたから、小さくなってチビチビ飲んでいただけなのですが、ふと奥の席に目をやると、どこかで見たような顔があります。
「あれはSF作家の○○先生じゃないですか?」
 隣にいた先輩にこっそり聞いたら、思わずコケそうになりました。

「誰だっけ、それ?」
 もちろん、出版社に勤めているからといって作家の顔を全て憶えている訳ではないし、畑違いの週刊誌や月刊誌の場合、作家との付き合いはほとんどありません(私もそうです)。だからその先輩の反応も無理からぬところなのですが、私たちの世代にとっては、子供の頃に誰でも必ず読んだような作家だったので、ちょっとびっくりしたのでした。
 まあ、その先輩がたまたまSFに興味がなかっただけなのかもしれません。でも、ジャンルとして盛り上がっている頃であれば、作品は読んでいなくても、名前や顔くらいはわかったはずです。今から思えば、ちょうどその頃は90年代へと続くミステリー・ブームの始まりの時期で、それとは逆に出版界で「SFは売れない」と言われ始めていた頃。「サンリオSF文庫」が廃刊になったのも、確かその年のことでした。

 私はSFもミステリーも読みますが(最近は小説の読書自体が減ってしまって、あまり読めていませんが)、20年前のあの「逆転現象」は今でも不思議でなりません。本格とハードボイルドと冒険小説では読者層が全然違うはずなのに、もう何でもかんでもごちゃ混ぜになったまま、出版界を挙げての「ミステリー」ブーム。一方で、「SF」の二文字は嫌われて、ちょっと前ならSFと銘打たれたはずの小説が「ホラー」として売り出されてゆく……。
 それまではどちらかと言えばミステリーよりはSFの方に分がありました。なにしろ私たちが少年時代を過ごした1960年代・70年代は、映画もテレビも漫画もSFだらけ。小学校の図書館には各社から出ていたジュブナイルSFのシリーズが何種類も置いてありましたし、中学や高校の頃にはハヤカワ文庫や創元推理文庫のSFを友人同士で普通に貸し借りしていました。星新一氏や筒井康隆氏の作品は、SF好きならずとも一種の通過儀礼のように読まれていたように思います。
 ご多分に漏れず、私も中学・高校時代はSFをそこそこ読んだクチです。「キャプテン・フューチャー」などのスペース・オペラや、「コナン・シリーズ」などのヒロイック・ファンタジーに始まって、クラーク、アシモフ、ハインラインの三巨頭、ブラッドベリ、ベスター、ディック、ル・グィン……。日本人作家も角川文庫が重点的に揃えていた時期で、ずいぶんお世話になりました。確か私が高校生の時にはSFの専門誌も4誌に増えて、少ない小遣いで何を買うか迷った記憶があります。日本の出版界にとって、おそらくあの頃(70年代後半~80年代前半)がSFの黄金時代だったのではないでしょうか。

 個人的には、特に小松左京氏の作品にどっぷり浸かりました。中二の夏、学校の図書館にあった『果しなき流れの果に』を読んだ時の衝撃は今でも忘れられません。本があった棚の位置まで鮮明に憶えています。
 私にとって、小松左京という人は単なるSF作家というだけではなく、知的世界へのガイド役だったように思います。ともかく好奇心旺盛、博覧強記な人で、ひと言で言えば「学問の野次馬」。小松氏の手にかかれば、どんな学問も面白そうに感じられるし、「オレはまだ何も知らない。もっと勉強したい」という気にさせられます。大人の世界への水先案内人という感じで、実際、私が最初に買った教養新書は小松氏と加藤秀俊氏の共著『学問の世界―碩学に聞く―(上・下)』(講談社現代新書)でしたし、それをきっかけに読書の幅も広がって行きました。ついでに言えば、ロマンチストでありながら、下品でくだらないギャグも好きという、その嗜好性やお人柄にも影響を受けたような気がします。
 出版社に入ったからには、一度はお目にかかってご挨拶をしたいと思っておりましたが、念願かなってお目にかかれたばかりか、このほど7月刊の1冊として本も出すことになりました。自作や半生についての語り下ろしで、タイトルは『SF魂』!。
 本作りをさせていただきながら改めて思ったのは、その30代での仕事ぶりの凄さです。『復活の日』『果しなき流れの果に』『継ぐのは誰か?』という傑作を書く一方で、中公新書で『未来の思想』を書き、深夜放送のパーソナリティをやり、大阪万博のテーマ館サブプロデューサーを務める。これを全部30代でやってしまったのですから、本当に驚きです。『SF魂』の中では、京大の先生方との交流がどのように広がっていったのか、それがどう万博につながったかも語っていただきました。少年時代に小松SFに魅せられた「同好の士」の皆様だけでなく、『日本沈没』しか知らないような方にも、ぜひ「小松ワールド」に触れていただければと思います。

 この本のオビを作る際、私は最初、「かつてSFが輝いていた時代があった!」というコピーを考えていました。でも、編集部のSF好き(こちらは筒井ファン)から、「それは負け犬根性ですよ。今だって面白いものはみんなSFじゃないですか」と諭されてやめました。確かにおっしゃる通り。小説も映画も漫画も、面白いものはSF的なものばかり。「あの頃はよかった」というのは中年オヤジのノスタルジーに過ぎないのでしょう。
 ただ、なんとなく、自分がSFを読んでいた時代は世の中に余裕があったというか、明るかったなあという印象があります。SFというホラ話、壮大なる笑いの文学、奇想と批評の文学が受け入れられる時代性というのはあると思うのです。私は90年代以降の「眉間にシワを寄せたような世の風潮」と、出版界でのSFの低落傾向は、どこかつながっているような気がしてなりません。
 けれども、そんな空気がまた変わりそうな兆しもあります。いま中学生の息子たちが、電撃文庫のライトノベルやらハヤカワ文庫FTの「ベルガリアード物語」やらにハマっていますが、あれは昔で言えばSFです。先日は長男から、「お父さん、池上永一の『シャングリ・ラ』は面白かったよ。まだ読んでないの?」と言われてしまいました。ことさらに「SF」と大声を出さないだけで、実は若い層ではまたSFが読まれ始めているのではないでしょうか。だとすれば、日本の出版界に眠る豊穣な作品群にも、また光が当たって欲しいと思います。
 奇想と批評を楽しむ、成熟した時代が来ることを、心から願っています。

2006/07