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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

ゴルディオスの結び目

 アレクサンドロス大王の有名な伝説に、「ゴルディオスの結び目」の話があります。
 東方遠征に出発したアレクサンドロスが、小アジアのゴルディウム(現在のアンカラの近く)に入城した時のことです。もともと古代フリギア王国の首都であったこの古都には、ある言い伝えが残されていました。神殿に祭られた戦車の車輪に複雑な結び目の縄が結わえられており、これを解いた者はアジアの支配者になるというものです。町を建設した王の名前をとって「ゴルディオスの結び目」と呼ばれ、これまで何人も挑戦したけれども、誰一人として解くことができなかった。ところがアレクサンドロスは、この結び目に近寄るや、剣で一刀両断に断ち切ってしまった……。

 その後、アレクサンドロスはアケメネス朝ペルシャを撃ち破り、今のアフガニスタンやパキスタンも征服し、インド北部まで軍勢を進めて一大帝国を築き上げます。まさに言い伝えのとおり、「アジアの王」になったのでした。
 この伝説は欧米世界ではかなりポピュラーなようで、英語の辞書を引くと「Gordian knot」は難題の意味で載っていますし、「cut the Gordian knot」は難題を非常手段で解決するという意味の成句にもなっています。
 作家の想像力を刺激する素材でもあるのか、日本では小松左京氏の傑作SFとして名高い『ゴルディアスの結び目』という作品がありますし、『朗読者』で知られるドイツのB・シュリンクも『ゴルディオスの結び目(Die gordische Schleife)』というサスペンス小説を書いています。

 おそらく、ほかにもいろんな局面で喩えとして使わてきた言葉だと思いますが、私が今、この「ゴルディオスの結び目」という言葉で連想するのは、中東の情勢です。イラク、パレスチナ、アフガニスタン、チェチェン、スーダン……中東地域を見渡せば容易に解決できない難問だらけ。複雑な要素が絡み合って、いずれもまさに「解けない結び目」になってしまっています。
 しかも結び目は固くなる一方です。たとえばイスラエルとパレスチナをめぐる問題は、その最たるものでしょう。東西冷戦下では米ソの代理戦争的側面もありましたが、冷戦が終結し、1993年にはイスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長の間でオスロ協定が結ばれました。パレスチナ国家の独立を視野に入れた内容で、世界中が歓迎し、両氏はノーベル平和賞まで受賞、解決への道筋が見えたはずでした。ところがラビン首相の暗殺を機に再び暗転。報復の連鎖が繰り返され、今ではオスロ協定以前よりも明らかに事態は悪化しています。

 いったいなぜ、こんなことになってしまうのか。パレスチナ問題はあくまで一例にすぎません。とにかく日本人にとってはわかりにくい中東の「結び目」を、コンパクトに解いた本が必要なのではないか――そんな思いからご執筆いただいたのが、今月刊の一冊『中東 迷走の百年史』(宮田律著)です。
 中東というと、すぐに「イスラムとユダヤの対立」だの「十字軍の時代から……」だの、大ざっぱなことが言われがちですが、キリスト教が誕生して2000 年、イスラム教が誕生して1400年、その間ずっと戦争が続いていたわけではありません。宗教や民族といったエスニックな問題だけに帰してしまうのは、素人目に見ても単純すぎる。もちろんそれも背景としてはあるでしょうが、現代の紛争にはそこに直結する理由、直接の引き金があるはずなのです。そこで本書では、「大昔」の話は最小限にして、「この100年」を中心に解説してもらいました。
 私が特に目を開かされたのは、中東地域では民主主義が混迷に拍車をかけてしまうという指摘です。たとえばイスラエルの現政権は、選挙で勝つために対パレスチナで強硬策を取らざるを得ない。イスラム教から離れた世俗的な国家を作ろうとしているトルコやアルジェリアでは、民主主義に忠実な選挙をやればやるほど、イスラム勢力が多数派になってしまう。もちろん、イスラム勢力=過激派では決してありませんが、イスラム勢力が政治的に力を持てば、過激なグループも台頭しやすくなるでしょう。そんな一筋縄ではいかない、逆説的な状況もあるわけです。
 また、こうした国々では、IMFモデルをはじめ、さまざまな経済政策を試みて失敗し、そこから脱却するための避難所としてイスラムが機能している側面もあるそうです。つまり、イスラム勢力の伸張を単なる伝統回帰としてではなく、きわめて今日的な経済の問題としてとらえる視点も必要なのです。

 ちょうど6月末にはイラクで占領当局からの主権移譲も行われます。イラクがなぜここまで混迷を深めてしまったのか、ブッシュ政権の誤算はどこにあったのか、そのあたりもクールに分析されていますので、ぜひお読みいただければと思います。
 また、こうした問題にご関心のある方には、昨年12月に刊行したマハティール・マレーシア前首相による『立ち上がれ日本人』もお薦めです。
 マハティール氏はパレスチナ問題の本質は「領土問題」であると喝破します。そして宗教対立や「文明の衝突」といった“単純でわかりやすい見方”に疑問を呈しつつ、アメリカの世界観、外交政策に異を唱えます。
 たとえば私が印象に残っているのは、こんな一節です。
「世界は多様だからこそ、世界なのです。一つの価値観で束ねようとするのは、子供の所業です」(「第4章 日本人こそイスラム世界を理解できる」より)
 この機会に、既刊本の棚からぜひ手にとってみてください。

2004/06