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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

取り返しがつかないこと

 私には中一と小五になる息子がいます。日頃、あまり家にいないこともあって、父親としてろくなことはしていないのですが、幼い頃から二つのことだけは言い聞かせてきました。それは「恥ずかしいことはするな」「取り返しのつかないことはするな」ということです。
 長男が小学校低学年の頃、喧嘩をして相手の目の近くをケガさせたことがありました。その時にもこんなふうに教えたおぼえがあります。
「喧嘩をするのはしょうがないけど、一人に大勢で向かうとか弱い者いじめとか、卑怯なことだけはするな。それはいちばん恥ずかしいことだ。それと、目をケガさせたりするのは絶対にいけない。少々のケガは治るけれど、目をケガするともう治らない。ものごとには取り返しがつくことと、つかないことがある。取り返しがつかないことだけはするな」
 さすがにこのとき、「人を殺してはいけない」などとは言いませんでしたが、人の命は取り返しのつかないものだ、ということは折りに触れて話してきたように思います。

 子供たちの事件が起きるたびに、私たちは無力感に襲われます。それは、あれこれ原因を考えても、結局のところよくわからないからです。今回の佐世保の事件も、ネット上のコミュニケーションの問題、『バトル・ロワイアル』への傾倒など、いろいろ取り沙汰されていますが、なぜそこから一足飛びに殺人に至るのかはわからない。思春期特有の心理や個人の性格、いろんなことが複合したとしか言いようがないのです。
 命の大切さ、などと言うと当たり前の言い方になってしまいますが、私たち大人にできることは、その当たり前のことを教えていくことぐらいしかないのではないでしょうか。

 亡くなった怜美ちゃんのお父さんの言葉には胸を突かれました。事件直後の会見にせよ、怜美ちゃんへの「手紙」にせよ、胸がふさがる思いです。
 事件の日の朝、洗濯機を回していて、娘が出かけていく時の顔を見ていない――。そんなことを会見でおっしゃっていたのが忘れられません。
「さっちゃん。ごめんな。もう家の事はしなくていいから。遊んでいいよ、遊んで」
 新聞に掲載された「手紙」のこのくだりを読んで、思わず目頭が熱くなりました。
 本当にもう取り返しがつかないのです。
 この「手紙」を加害者の少女にも読んで欲しいと切に思います。

 なぜ人を殺してはいけないのか。当たり前の問題だけに、かえって子供にどう教えるかは難しいのですが、4月に刊行した『死の壁』で養老孟司さんはこんなふうに明快に語っています。
「蠅を叩き潰すのには、蠅叩きが一本あればいい。じゃあ、そうやって蠅叩きで潰した蠅を元に戻せますか」
「こういう問いには、現代人よりも昔のお坊さんのほうがよほど簡単に答えることが出来たはずなのです。『そんなもの、殺したら二度と作れねえよ』と。『蠅だってどういうわけか知らないけれど現にいるんだ。それを無闇に壊したら取り返しがつかないでしょう』ということなのです」
「人間を自然として考えてみる。つまり高度なシステムとして人間をとらえてみた場合、それに対しては畏怖の念を持つべきなのです。(中略)他人という取り返しのつかないシステムを壊すということは、実はとりもなおさず自分も所属しているシステムの周辺を壊しているということなのです。『他人ならば壊してもいい』という身勝手な勘違いをする人は、どこかで自分が自然というシステムの一部とは別物である、と考えているのです」

 私は『死の壁』と怜美ちゃんのお父さんの「手紙」を、息子たちに読ませようと思っています。

 さて、6月刊の4冊のご案内です。
中東 迷走の百年史』(宮田律著)は、まさに現在進行中の「戦争」について、その原因をコンパクトに解説したものです。中東だイスラムだといっても、千数百年にわたって戦争状態が続いているわけではありません。今につながる百年を中心に、イラク、パレスチナ、アフガニスタンなど、12の発火点の「問題の根」を探ります。中東はわかりにくいと食わず嫌いの方には、格好の入門書といえるでしょう。
創価学会』(島田裕巳著)は、いまや日本社会を左右するに至った巨大宗教団体の「意味」を読み解きます。意外に知られていないその発足の経緯、高度成長期に急拡大した背景など、クールな視点から社会学的な分析を試みています。この組織を知る上で必読の一冊です。
誤読された万葉集』(古橋信孝著)は、誰もが中高時代に習った万葉集の「真の姿」に迫ります。ますらをぶり、雄壮などという単純な解釈が劇的に覆る衝撃! 目からウロコが落ちること請け合いです。
 そして『男の引き際』(黒井克行著)は、文字通り「引き際」について研究した異色の新書です。世の中見渡せば、引き際の悪い人ばかり。なぜそうなるかを、潔い引き際を演じた人々の生き方から照らし出します。つい我が身を振り返りたくなる一冊です。

2004/06