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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

マトンがご馳走だった頃

 このところジンギスカン料理が人気だとかで、専門店も増え、スーパーでもお肉のセットが目に付くようになりました。ジンギスカンは不思議とビールに合います。暑気払いにはピッタリというわけで、先日、人気店の一つに行ってみました。
 評判に違わず、なかなか美味しい店だったのですが、ちょっと意外な感じがしたのは、お肉がマトンではなく全てラムだったこと。本場の北海道ではどうなのか知りませんが、私にとって「羊の肉」といえば、やはりマトンです。これは個人的な食体験に根ざしているのかもしれません。

 子供の頃、マトンの焼き肉はたいへんなご馳走で、好物の一つでした。我が家ではもともと牛肉を食べる習慣はありませんでしたし、そもそも牛肉はあまりに高くて、庶民にはとても手が出せなかった。母が「ビフテキ」と呼んで食べさせてくれていたのも、実際は豚肉を焼いたものでした(そもそも母も牛肉のステーキなど食べたことがなかった)。そんな時代に、マトンは豚肉よりも安くて手の届くお肉だったのです。
 まだスーパーも進出してきておらず、小学校の近くに小さなお店が数軒あっただけの昭和40年代。肉も魚も野菜も扱う食料品店が一軒だけあって、500円札を持たされてよくお使いに行かされました。九州の山間の小さな町でしたが、なぜかその店には必ずマトンが置いてあって、「そうか、羊の肉は豚肉より安いんだ」と思ったことを憶えています。
 鮮魚も扱っているとはいっても、なにしろ山間ですから、そのお店でもいつもあるのは鯉だけ。海の魚で刺身用といえばシメサバくらいで、あとは一塩物と干物。思い返せば、あの頃タンパク源になっていたのは家で飼っていた鶏か、魚の干物が多かった(今でも鳥料理や塩サバが好きなのは、そのせいかもしれません)。そういう中で、たまに出てくるマトンの焼き肉は、「おお、ご馳走だ」という感じでした。
 それが今では、よほど高級なものを望みさえしなければ、普通の食材は何でも安く手に入ります。「安い肉」というイメージだったマトンが、「ヘルシーな肉」として重宝がられる時代です。私の故郷でもスーパーや量販店のおかげで暮らしは様変わりしました。もちろん肉でも魚でも何でもありますし、「モノ」ということに限れば、東京での暮らしとほとんど違いはありません(そういう均質化の善し悪しはまた別の問題ですが)。
 食生活のことを考えると、日本は本当に豊かになったのだなあと実感します。わずか60年で、復興どころかこれほどの繁栄を実現したわけですから、驚くべきことではないでしょうか。

 そんな思いがそもそもあるからか、「日本では貧困が増えている」「格差社会になっている」といった議論を読むと、そうかなあと疑問を感じてしまいます。自分の子供の頃と比べると、社会全体は明らかに豊かになっていますし、モノの値段は相対的に安くなって暮らしやすくなっていると思うのです。ニートやフリーターの増加を取り上げて、「日本社会は二極化している」という向きもありますが、それはニートやフリーターでも「食っていける」からにほかなりません。私はどうも、この種の議論には違和感を感じてしまいます。
 いい若い者がブラブラしていれば、「真面目に働け!」。やりたいことが見つからないなどと言う青年には、「とりあえず仕事しろ!」。自分に向いた仕事がわからないという子供には、「そんなものは誰だって一生わからん!」――そんなふうに、ごく当たり前のことをシンプルに言ってあげればいいだけだと思うのですが……。
 自分の祖父母、両親たちの世代に比べれば、自分たちは本当に恵まれていると思います。祖父母の世代は戦争で苦労をし、戦後はひたすらコツコツ働きました。両親は戦中戦後に少年期を送った世代ですが、高校まで出してもらえるのがせいぜい。あとは親兄弟、子供たちのために働きました。しかし私たちの世代になると、経済的な理由で進学を断念したケースは親の世代よりは少なかったはずです(それでもまだ友人の中には家の事情で大学進学をあきらめた人が何人もいましたが)。そしてこれから先は、最初から豊かさが所与のものとしてあった世代が社会の中核を担っていくわけです。
 二極化や格差社会の議論によれば、90年代以降、その傾向が強まっているといいます。けれどもそれは、どの時点と比べるか、という程度の問題ではないでしょうか。全体が底上げされた中での微細な差異を「格差社会だ」などと叫ぶのではなくて、戦後日本を懸命に築き上げてきた先人たちの努力に敬意を払いながら、何不自由ない時代に生まれたことを自覚すること。それがむしろ大事なのではないでしょうか。

 今月刊の『戦後教育で失われたもの』(森口朗著)は、ニートの増加や「格差社会論」などに違和感を感じておられる方に是非読んでいただきたい一冊です。森口さんは、現代社会の行き詰まりの原因は、「己を知る謙虚さ」「宿命を受け入れる潔さ」「理不尽を生き抜く図太さ」というごく当たり前の「生きる力」の喪失にあると説きます。そしてそれは、長年にわたる「戦後教育」の帰結だというのです。
 私は本書を読んで、自分の中の違和感の正体がよくわかりました。7月に刊行した『あの戦争は何だったのか─大人のための歴史教科書─』(保阪正康著)もたいへん好評ですが、この2冊を続けて読むと、日本社会の欠点が見えてくるように思います。キーワードは、「リアリズムの欠如」――。

 他の8月刊は以下の3点です。
1985年』(吉崎達彦著)は、歴史を横に輪切りにしたちょっと珍しいタイプの本。この夏は60年前ばかりが注目されますが、実は20年前の1985年も転機の年でした。ゴルバチョフ登場、プラザ合意といった世界史上の出来事だけでなく、日航機墜落など大きな事件も起こり、日本社会にも地殻変動が起きました。その変動がバブル崩壊から今に至るまでつながっているのです。歴史というほど遠くない、我らの「オンリー・イエスタディ」をもう一度振り返ってみませんか。
自動車が危ない』(塚本潔著)は、三菱だけではない、最先端の自動車が抱える「危うさ」を、メーカーの技術者たちに丁寧に取材して浮かび上がらせた「自動車の文明論」です。現代文明がたどりついた場所に目眩を感じながら、自分のクルマもちょっと怖くなります。
虎屋 和菓子と歩んだ五百年』(黒川光博著)は、羊羹で知られる老舗の歴史を通して描く「和菓子の日本史」。天皇や将軍だけでなく、光琳、西鶴、渋沢栄一などのエピソードとともに、和菓子の奥深さを実感できます。お土産を買われる際に、ちょっと読んでみるのも一興では?

2005/08