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今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

思考停止の言葉

 選挙のたびに「政(まつりごと)というのは、やはり祭りなのだなあ」という感慨を抱きますが、今回の参院選ではとりわけその思いを強くしました。確かに安倍総理や閣僚たちの政治センスや言語感覚には大いに問題がありますが、それにしても、閣僚たちが袋叩きになり、一つの方向へとムードが作られてゆくのを目の当たりにすると、その「熱」にいささかたじろいでしまいます。思わず「血祭りにあげる」という言葉を思い出してしまいました。
 むろん、民意の選択によって政権交替が可能であることを証明したわけですし、日本の民主主義の健全さ、あるいは国民のバランス感覚を示したという見方もできるでしょう。しかし私はそれ以上に、マスメディアがいとも簡単に同じ方向を向いてしまうことに、言いようのない恐ろしさを感じました。
 まあ、そうしたマスメディアの傾向というのは今に始まった話ではありませんが、ネットやフリーペーパーも含め、メディアの種類は増え、多様になっているのに、肝心の言論からはむしろ多様性が失われているような気がしてならないのです。

 それはメディアで使われる言葉に端的に現れているように思います。
 例えば、今回の選挙でも争点の一つになった「格差」――。数年前から「格差社会」という言葉が頻繁に使われるようになり、今では「現在の日本は格差社会である」という言い方が当たり前のようになっています。しかし、一口に格差と言っても、「所得格差」「世代間格差」「地域間格差」等々、それぞれに原因も本質も違うわけです。子細に見ていくと、それは「格差」ではなく「条件の違い」「環境の違い」に過ぎないかもしれない。あるいは、そもそも「どの時代」「どの国」と比較して「格差が大きい」と言っているのか、どのくらいの「格差」なら許容範囲なのか、といった根本的な疑問も浮かびます。ところが、今の「格差社会」という言葉の使われ方は、そうした疑問を差し挟む余地を与えてくれないほど、ある種のベクトルを持った言葉になっています。そしてそれをメディアがオウム返しに使っているというのが現状ではないでしょうか。
 厄介なことに、「格差社会」という言葉は、「それはよくない」と反応しなければ非国民扱いされそうな「正義」をまとっています。しかし、「正義」をまとった言葉というのは何やら怪しいものが多い。「人権」しかり、「市場経済」しかり、「一億玉砕」しかり……。どうも私はこうした言葉には、共通する「思考停止の臭い」を感じてしまいます。

「ワーキングプア」「ロストジェネレーション」「生きづらさ」といった言葉も同様です。本当に困っている人に対しては社会保障で支えて欲しいし(自分の税金はそういう使われ方をして欲しい)、偽装請負などをやっているような企業には厳しく当たるべきだと思います。しかし、メディアに報じられるこの種の事例、あるいは発言をみると、「個人の内面の欠落感」と「社会システムの問題」を混同した議論も多いように思うのです。
 どんなに努力しても報われないことがある。しかし、自分が満たされないことを、他人のせいにしてはいけない――それが社会生活を営む上での最低限の了解事項だったのではないでしょうか。誰もがそうやって歯を食いしばって生きてゆくからこそ、人生は陰影に満ちたものになるのだし、哀しさや切なさを共有できるのだと思うのです。けれども、こうした違和感の表明も許さないような「正しさの風圧」が、この種の言葉の背後にはあるように感じられます。
 一方で為政者の側の言葉も「思考停止」そのもの。最たるものが安倍総理の「戦後レジームからの脱却」でしょう。だいたい「戦後レジーム」が何を指すのか判然としないし、我々の親や祖父母たちか営々として築いてきた「戦後」を、何の権限があって全否定するのでしょうか。とても「保守政治家」の姿勢とは思えません。歴史というのは、好き嫌い、否定肯定を超えて、背負っていかなければならないもののはずです。どうも安倍総理の場合、「改革」という言葉に追い立てられているというか、「改革」そのものが自己目的化しているような気がしてなりません。
 何かこう、普通の人間が共感できるような「真ん中」の多様な意見がどんどん聞こえなくなって、両極端の意見ばかりが耳に響いてくる――。そんな時代相を感じています。

 7月に亡くなられた河合隼雄氏が、『働きざかりの心理学』(新潮文庫)の中で、こんなことを書いています。
〈かつて日本が戦争をしていた頃は、働きざかりはすなわち、死にざかりであった。現在における「豊かな社会の働きざかり」というものが有り難いものであることは、まず忘れてはならない。世の中は決していいことずくめということはなく、(豊かな社会であっても)問題がいろいろ存在するのだが、それにもかかわらず、一昔前と比べて多くの点で現在の方が住みやすく、楽しくなったことは心に銘記しておくべきだろう〉
 単なる学者というより、「人生の師」と呼ぶにふさわしい河合氏ならでは言葉でしょう。これこそが成熟した大人の構え方、というものではないでしょうか。
 マスメディアがどんなキャンペーンを張ろうとも、いや、マスメディアが固まれば固まるほど、「本」の役割は大事になってきます。一つ一つはせいぜい初版1万数千部ですから、テレビや新聞とは比較にならないミニメディアですが、少なくとも多様性だけは守られています。新潮新書も、なるべく多様な「考えるためのヒント」を提供すべく、これからも柔軟な構え方でいろいろな本を出して行きたいと思います。

『「空気」の研究』(文春文庫)で、日本人を動かす「空気」の正体に迫った山本七平氏は、〈少なくとも明治の頃までの日本人は、「水を差す」という知恵を知っていた〉と書いています。それに倣うわけではありませんが、できれば新潮新書も世の中の空気に「水を差す本」でありたいと願っています。
 今月もそんな本が揃いました。世の「保守」に水を差し、真の保守の在りようを論じた『本格保守宣言』(佐藤健志著)。パチンコ王国・日本におけるカジノ経営の可能性を探る『日本カジノ戦略』(中條辰哉著)。女性や若者ばかりが「つらいんだね」と言われる世の中で、男たちのしんどさをルポした『男はつらいらしい』(奥田祥子著)。そして、巷の健康本とは一線を画し、「知的快楽」「自己投資」の観点から、究極の「ダイエット技術」と「やせる思考法」を伝授する『いつまでもデブと思うなよ』(岡田斗司夫著)――。他の新書では読めないような本ばかりです。ご期待ください。

2007/08