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緑の天幕

リュドミラ・ウリツカヤ/著 、前田和泉/訳

4,180円(税込)

発売日:2021/12/22

書誌情報

読み仮名 ミドリノテンマク
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Ai Noda/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 718ページ
ISBN 978-4-10-590177-6
C-CODE 0397
ジャンル 文学・評論
定価 4,180円
電子書籍 価格 4,180円
電子書籍 配信開始日 2021/12/22

ソ連とは一体何だったのか? ロシアを代表する人気作家の大河小説、ついに完訳!

いつも文学だけが拠りどころだった――。スターリンが死んだ一九五〇年代初めに出会い、ソ連崩壊までの激動の時代を駆け抜けた三人の幼なじみを描く群像劇。近年ではノーベル文学賞候補にも目される女性作家が、名もなき人々の成長のドラマを描き、強大なシステムに飲み込まれることに抗する精神を謳いあげた新たな代表作。

目次
プロローグ
素晴らしき学校時代
新しい先生
地下の子供たち
〈リュルス〉
最後のパーティー
民族友好
緑の天幕
退役した恋
みんな孤児
アーサー王の結婚
小さめのブーツ
高い音域
同級生たち
引き網
頭の大きな天使
騎士像のある家
コーヒーのしみ
逃亡者
洪水
ハムレットの影
よいチケット
かわいそうなウサギ
片道切符
聾唖の悪魔たち
ミリューチン庭園
最前列に
勲章の付いたズボン
イマーゴ
ロシア的な話
終わりよければ
エピローグ 美しい時代の終わり
訳者あとがき

書評

文学への愛と信頼からなるアンチ教養小説

沼野恭子

 現代ロシアを代表する作家のひとりリュドミラ・ウリツカヤの畢生の大作といえる『緑の天幕』がついに日本語に翻訳された。ウリツカヤは、ソ連時代を生きたさまざまな家族の姿を、機知に富んだ筆致でこまやかに描くのを得意とし、ロシア語読者に絶大な人気を博している。最近は毎年ノーベル文学賞の上位候補に名前が挙げられ、国際的な知名度も高い。
 本書は、スターリンが死んだ1953年から亡命詩人ブロツキーの亡くなった1996年までの四〇年あまりの間、自由を制限され抑圧された反体制知識人たちが何を考え、どう振舞ったか、その生きざまを丹念に描いた心震える傑作である。
 物語の中心は、1943年生れの著者とほぼ同年代の幼なじみ、三人の男だ。陽気で如才なく商売気もあるイリヤは、カメラを贈られたことから「時代の証拠」である写真を自ら撮るようになり、やがて禁止されていた前衛絵画を集め、サミズダート(自主的な地下出版)に携わるようになる。繊細な詩人の感性をもつ孤児のミーハは、ユダヤ人ゆえの差別を受けながらも聾唖者教育に打ち込もうとするが、発禁小説を読んだことを密告され職場を追われてしまう(このあたりはウリツカヤ自身がサミズダートに関わったために遺伝学研究所を辞めさせられた事実を想起させる)。一九世紀前半に皇帝の専制に反旗を翻した貴族=デカブリストの末裔にあたるサーニャは、いじめっ子に手を切られ、ピアニストになる夢をあきらめざるを得ず、音楽学者への道をめざす。
 この三人に加え、さらに同世代の女が三人登場するが、そのうちのオーリャも物語の重要な役割を担う主人公である。母親は頑迷な体制派ジャーナリストだったが、オーリャ自身は反体制の教師が投獄されたとき署名をして大学を退学させられ、その後イリヤと出会ってサミズダートの作成に協力することになる。このように一言で反体制知識人といっても、育った環境も違えば関心もまちまちだ。いったい彼らに共通していたものは何だったのか。
 少年三人を結びつけたのは、文学の教師シェンゲリの存在である。地下文書だったパステルナークの『ドクトル・ジヴァゴ』を読む反体制派のシェンゲリ先生が、ロシア文学への絶対的な愛と信頼を生徒たちに伝授し、それが生徒たちの血肉となり人間性を形づくったのだ。彼は生徒たちにこう語りかける。「文学は人類が持つ最良の宝です。そして詩は文学の核心で、世界と人類の中にある最良のものすべてが凝縮されています。それは、魂にとって唯一の糧です」。まさに「文学中心主義」のロシア知識人ならではの熱い言葉である。
 そして、それを具現化するかのように、テクストのそこかしこにロシア文学からの引用、言及、暗示がちりばめられ、プーシキン、レールモントフ、クズミン、チェーホフ、ツヴェターエワ、アフマートワ、マンデリシュタームらが綺羅星のごとく連なり、プロットから独立した第二の物語空間を築いている。登場人物と同じくらいたくさんの作家や詩人の声が通奏低音のように流れているのだ。これを「間テクスト性」と呼ぶとしたら、本書は間テクスト性の網目の上に成り立つ大河小説であるといえるかもしれない。また、多数の登場人物の心理を丁寧に描写してドラマを組み立てていく手さばきから、ウリツカヤを「現代のトルストイ」になぞらえることも誇張ではあるまい。
『緑の天幕』は、師弟愛と友情と文学の魅力が溶け合わさった作品だが、人間の成長を描いた単純な「教養小説」かというと、けっしてそうではない。というのも、もともとアイロニカルな「イマーゴ(=成虫)」というタイトルがつけられていたとおり、作中、未熟な知識人が、成虫になれない幼虫に喩えられているのである。ウリツカヤは最初から「アンチ教養小説」を想定していたのではないかと思う。
 しかし、のびのびと成長することの許されない強権的・抑圧的な社会において、そもそも人間の正常な成熟が望めるのだろうか。人間の成熟を促すような開かれた自由な社会とはどのようなものなのか――それは、現代の私たちにとってもきわめてアクチュアルな課題であるはずだ。

(ぬまの・きょうこ ロシア文学者)
波 2022年1月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Numano Kyoko 沼野恭子
狂乱と抑圧のソ連二〇世紀後半を、誠実で個性的な人間はいったいどのように生きることができたのか。『緑の天幕』で描かれているのは、ウリツカヤと同世代のさまざまな反体制知識人たちの成長と葛藤の姿である。彼らに共通しているのは、「生き延び、時代と和解するのを助けてくれる唯一のもの」である「文学」への絶対的な信頼と愛だった。才能ある音楽家のサーニャが、詩人の魂を持つミーハが、非合法文書に携わったイリヤとオーリャが愛おしくて、読後いつまでもひたひたと感動の波が押し寄せてくる。ウリツカヤの最高傑作である。

▼Сергей Григорьянц セルゲイ・グリゴリヤンツ
良質で才能にあふれ、興味をかきたてる素晴らしい本である。これはソ連の反体制運動に捧げられた最良の記念碑的書物だと私は確信している(それだけでは到底汲み尽くせない魅力もあるが)。これほど反体制派の心に近しく寄り添い、理解した繊細な作品は、ロシア文学史上いまだかつてなかったし、これからもないだろう。

▼Дмитрий Быков ドミトリー・ブィコフ
ノルシュテインの切り絵アニメーションのような手法が用いられている、とでも言ったらよいだろうか。そこでは叙述の断片が重なり合い、同じものが繰り返されたり、あるいは異なる視点から語られていたりする。

▼Наталья Иванова ナタリヤ・イワノワ
ウリツカヤは読者の目のすぐそばに独自のカレイドスコープをあてて、あまりにも目まぐるしくその絵柄を変化させてゆく。

著者プロフィール

1943年生れ。モスクワ大学(遺伝学専攻)卒業。『ソーネチカ』で一躍脚光を浴び、1996年、フランスのメディシス賞とイタリアのジュゼッペ・アツェルビ賞を受賞、2001年には『クコツキイの症例』でロシア・ブッカー賞、『通訳ダニエル・シュタイン』でボリシャヤ・クニーガ賞(2007年)とドイツのアレクサンドル・メーニ賞(2008年)を受賞。他に『子供時代』『それぞれの少女時代』『女が嘘をつくとき』など。2011年、シモーヌ・ド・ボーヴォワール賞を受賞し、ロシアで最も活躍する人気作家である。

前田和泉

マエダ・イズミ

1969年神奈川県生まれ。東京外国語大学外国語学部ロシア語学科卒業。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。2021年12月現在、東京外国語大学教授。著書に『マリーナ・ツヴェターエワ』、訳書にリュドミラ・ウリツカヤ『通訳ダニエル・シュタイン(上・下)』、アンドレイ・クルコフ『大統領の最後の恋』、アンドレイ・タルコフスキー『ホフマニアーナ』などがある。

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