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アリ・スミス/著 、木原善彦/訳

2,530円(税込)

発売日:2022/03/28

書誌情報

読み仮名 ハル
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Sora Mizusawa/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 332ページ
ISBN 978-4-10-590180-6
C-CODE 0397
ジャンル 文学・評論
定価 2,530円

いくら国境が隔てても、人の心はそれを飛び越える。分断を描く四部作の春篇。

一人は、長年相棒だった脚本家を喪い悲嘆に暮れる老演出家。もう一人は、移民収容施設で心を殺して働く若い女。絶望を抱え、それぞれ北の国にたどり着いた二人は、不思議な力を持つ少女との出会いを通じ、人生の新しい扉を開ける。EU離脱に揺れ移民排斥が進むイギリスを描く、奇想溢れるシリーズ第三作。

書評

希望のなさに捧げる

星野智幸

 独裁者プーチンがウクライナを軍事侵略している最中に、私はアリ・スミスの『春』を読むことになって、少し救われている。2019年に書かれたこの作品は、プーチン的なるものが成り立たないよう、全言語力で拒んでいるから。
 冒頭からプーチン的世界が炸裂する。
「さて、私たちは事実なんて欲しくない。私たちが欲しいのは混乱。(中略)私たちは怒りが欲しい。私たちは無法が欲しい。私たちは極力過激な言葉が欲しい」と、誰が発しているのかわからない語りで小説は始まり、ヘイトの欲望が羅列されていく。
 この「私たち」とは、誰か主体を持った集団を表すのではない。インターネット空間にあふれるような、無人称で匿名で主体を欠いた、つまりヘイトに依存して反復されただけの「私たち」である。それは意思を持たないまま機械的に増殖し、ネット空間を超えて世界の隅々に行き渡っている。日常的に吸う空気は今やヘイトに汚染されていて、誰もが言葉を呼吸するたび、主体としての「私」から憎悪の一人称である「私たち」に取って代わられていく。
 そんな空気に覆われた2018年10月のとある火曜日、二人の主人公が特別な一日を交差させる。
 一人は初老の男性、テレビ映画監督のリチャード。最愛の友人であり仕事のパートナーであった十七歳年上の脚本家パディを亡くし、茫然自失していた。どんなメジャーな力にもなびかない彼女の生き方と知性は、リチャードの生きるよすがだったから。衝動的にスコットランドへの列車に乗り、降りた駅で死を選ぼうとした刹那、十二歳の少女に止められる。
 この少女フローレンスと連れ立っていた二十代の女性ブリタニーが、もう一人の主人公。家庭の経済的事情で不本意にも大学へは行けず、ロンドンの入国者退去センターの新人職員として働いている。非正規滞在の外国籍の人たちが収容されるこの施設の異様な日常に、ブリタニーは自分を白紙にしてなじんでいる最中だ。
 詳細に描写される収容施設の現実を読んで、私はめまいがした。この一年間次々と明らかにされた日本の入管のおぞましい実態と、まったく同じなのだ。本来は短期の収容のはずが何年何ヶ月と長期にわたり、いつ解放されるのか、強制送還されるのかもわからず、未来のない日々を強いられること。収容者は人間扱いされず、希死念慮や病で苦しんだりしても、係員の注意を引くためにしている演技と見なされること。日本では、収容されていたスリランカ人女性のウィシュマさんが、そうして病を放置されて亡くなるという非道があったが(この原稿を書いている3月6日がちょうど一周忌)、イギリスも同様なのだろうか。
 差別の暴力の最前線で働かざるをえない「善良」な者たちが、いかにしてその暴力に加担する人間へと変わっていくのか。アリ・スミスは繊細な言葉でブリタニーに寄り添いながら、その現実を怖いほど正確に記していく。
 くだんの火曜日、ブリタニーは出勤途中に見知らぬ少女フローレンスに声をかけられ、スコットランドまでつき添うはめになる。あちこちの収容施設に独りで乗り込んでは収容者の一部を解放させているという噂の少女らしく、ブリタニーは気になってしまったのだ。入管行政の敵かもしれないこの型破りで頭の良いフローレンスとの鉄道の旅は、予想と違い、ブリタニーにとてつもない解放感を与える。
 駅でのリチャードの自殺未遂の後、四人目の重要人物が加わる。三人は、駅前にいたアルダという中年女性のコーヒートラックで移動することになるのだ。どうやらフローレンスとアルダは同じ活動の仲間で、この駅で落ちあう手はずだったらしい。この出会いが、それぞれの未来を少しずつ変えることになる。四人での道中の会話が魅力的なだけに、その後に待ち構える事件は落差が大きく、読み手はちょっとショックを受けるかもしれない。プーチン的世界の魔の手からは、なかなか逃れられないのだ。
 回想で語られるパディの言葉に、強烈な一言がある。「真の希望は希望が存在しないこと」。虚無的に見えるこの言葉は、今の世界のあり方を的確に表していると同時に、希望はまさにそこにあることを示してもいる。
 この小説は、システム化した憎悪言語を、人の意思に関わる言葉へと奪還していく。その過程を読むことは、私に希望がないことを、希望にしてくれる。

(ほしの・ともゆき 作家)
波 2022年4月号より
単行本刊行時掲載

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短評

▼Brady Mikako ブレイディみかこ

愛する人を亡くした映像作家の私的な物語と、移民収容所の保護官と不思議な少女の政治的な物語。異なる性質の二つのストーリーが交錯し、混ざり合い、ポスト・ブレグジット交響曲を奏ではじめる。きわめて時事批評風でありながら、あくまで芸術であることは可能なのだという著者の声が聞こえるようだ。「またゼロから始めればいい。私たちは回転リボルブする」と少女は言う。人間は進化エボルブするのではなく、それぞれ違う形で革命リボリューションのように回すのだと。その希望なき希望。春は生命が動き出す季節だ。


▼Ploughshares プラウシェア

『春』はシリーズ中で最も赤裸々で、同時に最も希望に満ちた作品だ。会話にはユーモアと知性があふれている。スミスを読む喜びは、バラバラに見えるたくさんのピースが作品の結末では見事に意味を持つという安心感だ。


▼Observer オブザーバー

『春』を読む間に突然、途方もない大小説の全貌が頭に浮かんだ。四冊が織りなす思想とイメージがいかにめくるめく図柄になるか、それがついに見えてきた。


▼Star Tribune スター・トリビューン

スミスは英語圏で最も大胆で政治的な小説家だ。

著者プロフィール

アリ・スミス

Smith,Ali

1962年、スコットランド・インヴァネス生まれ。ケンブリッジ大学大学院で学んだ後、スコットランドの大学で教鞭を執るが、ケンブリッジに戻り執筆に専念。デビュー短篇集Free Love and Other Stories(1995)でサルティア文学新人賞を、長篇The Accidental(2005)でホイットブレッド賞を、『両方になる』でゴールドスミス賞、コスタ賞、ベイリーズ賞を受賞。『秋』から始まった「四季四部作」は『夏』(オーウェル賞受賞)で完結。最新作は『Companion Piece』(2022)。現代イギリス文学を代表する作家の一人で、タイムズ文芸付録による2018年のアンケートThe Best British and Irish Novelists Todayで1位に選ばれている。

木原善彦

キハラ・ヨシヒコ

1967年生まれ。大阪大学教授。訳書にトマス・ピンチョン『逆光』、リチャード・パワーズ『オルフェオ』『オーバーストーリー』、アリ・スミス『両方になる』『秋』、オーシャン・ヴオン『地上で僕らはつかの間きらめく』など。ウィリアム・ギャディス『JR』の翻訳で日本翻訳大賞を受賞。著書に『実験する小説たち――物語るとは別の仕方で』『アイロニーはなぜ伝わるのか?』など。

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