新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

紙一重

 月刊誌の編集部にいた頃、取材に関わった仕事で、今でも忘れられない事件があります。
 1999年9月、東京・池袋の東急ハンズ前の路上で、男が見ず知らずの通行人に次々と襲いかかり、2人を殺害、6人に重軽傷を負わせた事件です。
 あるノンフィクション作家と公判の傍聴を続けながら、被害者の遺族の方にもお話をうかがったのですが、たまたま夫婦で現場を通りかかり、奥さんを殺されてしまった男性のお話を忘れることができません。
 ご夫婦はその日、池袋サンシャインシティの中にあるパスポートセンターに、事前に申請していたパスポートを受け取りに行くところでした。身内の方が海外で結婚式を挙げることになり、それに出席するためです。この旅行は夫婦揃っての初めての海外旅行にもなるはずでした。この日はご主人も仕事が休みで、のんびりと遅めの朝食をとってから電車で池袋に出たそうです。いったん銀行に寄ってお金を下ろし、サンシャインに向かうべく現場にさしかかったところで、偶然にも犯人の凶行と遭遇してしまったのです。

 被害者にとって犯人を憎んでも憎みきれないというのは言うまでもないことですが、ご主人の話が何とも痛ましかったのは、「あの時なぜあの場に居合わせてしまったのか」と、事件から1年以上経ってからも、ずっと自分を責めておられたことです。
 ふだんの休日はあまり朝は食べない。なのになぜ、あの日だけ朝食をとってしまったのか。朝食をとらなければ、池袋に着いてから、どこかで早めの昼食をとっていたのではないか……。
 なぜあのタイミングに銀行に立ち寄ってしまったのか。お金ならいつでも引き出せたのに、なぜあそこで寄り道してしまったのか……。
 銀行を出た後、人混みが嫌いだから、別の裏道を行くことも考えた。でも、それでは遠回りになるからと、あの道を行ってしまった。なぜ強引にでも、もう一つの道の方へ行かなかったのか……。
 悪いのは犯人であって、ご主人が自分を責める必要はまったくありません。けれども、事態を避けられなかった自分、妻を守れなかった自分を責めてしまう。その気持ちは痛いほどわかるだけに、私はあのとき、返す言葉が見つかりませんでした。

 JR福知山線で起きた脱線事故は、死者百人を超す大惨事となりました。JR西日本の安全管理に憤りをおぼえるのは言うまでもありませんが、被害者の方々ひとりひとりの事情が明らかになるにつけ、その生死を分けた偶然の不条理に、何とも言えないやりきれなさを感じてしまいます。
 駅に行く途中、渋滞に巻き込まれて、たまたまあの電車に乗り合わせて亡くなった方。遠足に行くために、ふだんは乗らない電車に乗ってしまった高校生。お店の備品を買うために、車で送ろうかという息子の誘いを断って電車を選んでしまった女性。どの車両に乗るか、いや、同じ車両でも、立っている位置によって生死が分かれてしまう……。
 人の生き死にを分けるのは、ほんとに紙一重。私たちは、哀しいかな、そうした「紙一重の生」を生きているのでしょう。
 今はただ、亡くなられた方々のご冥福を心からお祈りしたいと思います。

 5月の新刊は次の4点です――。
政治の数字―日本一腹が立つデータブック―』(伊藤惇夫著)は、まさに読んで字のごとし、日本の政治をさまざまな数字で切り取ってみたものです。例えば「35兆円」。これは日本の全公務員の年間人件費。日本には現在、96万7000人の国家公務員と311万6000人の地方公務員がいるそうな。「120人」、これは前回の総選挙で、小選挙区で落選したにもかかわらず、比例区で復活当選した衆議院議員の数。衆議院議員の四分の一は、いわば「裏口入学」のような議員で占められているわけですね。これらはほんの一例。さまざまな数字から、日本の現実が見えてきます。
自閉症の子を持って』(武部隆著)は、息子が自閉症と診断された父親による、渾身の手記です。子供が自閉症であるとわかったときの夫婦の苦悩。息子の自立をと考える著者の前に立ちふさがる、福祉政策や学校の壁。そして、時に鬼と化してしまう自分自身の心……。私は原稿を読みながら、何度も目頭が熱くなりました。
徳川将軍家十五代のカルテ』(篠田達明著)は、『モナ・リザは高脂血症だった─肖像画29枚のカルテ─』で話題を呼んだ著者が、今度は徳川十五代の「診断」に挑みます。例えば家康は鯛の天ぷらによる食中毒で亡くなったとされていますが、胃ガンの可能性が高いとか、ドラマなどでは颯爽とした将軍として描かれる三代家光が、じつは鬱病で苦しんでいたとか……。江戸の将軍たちを見る目が変わる、ウンチク満載の一冊です。
妻の浮気―男が知らない13の事情―』(池内ひろ美著)は、夫婦問題のコンサルタントとして9000人の相談を受けてきた著者による、「妻の浮気」レポートです。取り上げられた13のケースを読み進むうちに、男性読者はちょっと怖くなるかもしれません。本書のゲラを読んだ小社独身社員いわく、「もう結婚できなくなりそうですよ」。

2005/05