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今月の1冊


 アメリカの作家カーソン・マッカラーズ(1917年生まれ、1967年没)が23歳の時に発表した鮮烈なデビュー作を、新訳として刊行しました。新潮文庫では1972年に河野一郎さんによる翻訳で刊行して以来、51年ぶりの新訳となります。

 マッカラーズは1917年、アメリカ南部のジョージア州に生まれ、本作『心は孤独な狩人』により23歳の若さでデビューを果たします。批評家たちから絶賛されたデビュー作は、瞬く間にベストセラーに。翌年には『黄金の眼に映るもの』、1946年には『結婚式のメンバー』、1951年には『悲しきカフェのバラード』を発表。旺盛な創作意欲を見せます。『結婚式のメンバー』は1950年に舞台となり、1952年には映画化。本作も1968年に映画化され(邦題「愛すれど心さびしく」)、主演のアラン・アーキンとソンドラ・ロックはともにアカデミー賞の候補となりました。

 私生活においてはデビュー前の1937年に作家志望のリーヴス・マッカラーズと結婚しますが、二人とも同性愛的傾向を持っており、やがて結婚生活は破綻。1945年に再婚しますが、リーヴスは妻に心中を持ちかけ、断られて自ら命を絶ちます。加えてマッカラーズはアルコール依存症などさまざまな病に苦しみ、1967年に波乱に満ちた短い生涯を閉じます。

 村上春樹さんがマッカラーズ作品を翻訳するのは二作目。『結婚式のメンバー』を2016年に文庫オリジナルで刊行し、反響を呼びました。村上さんは『結婚式のメンバー』の訳者あとがきで、〈僕は個人的にはこの『結婚式のメンバー』と、『心は孤独な狩人』と、『悲しきカフェのバラード』がマッカラーズの最高傑作だと考えている。この三冊の小説とは大学時代に巡り会って、それ以来何度も読み返した。(中略)今回この『結婚式のメンバー』を自らの翻訳で、手に入りやすい新刊文庫本として出版できたことは、僕にとって大きな喜びであり、またささやかな誇りである〉と述べています。

 また、本作『心は孤独な狩人』の訳者あとがきでは以下のように記しています。
〈僕が翻訳を始めたのはもう四十年くらい前のことだが(小説家になるのとほとんど同時に翻訳の仕事をするようになった)、今はまだ始めたばかりだから実力的に無理だけど、もっと経験を積んで翻訳者としての腕が上がったら、いつか自分で訳してみたいという作品がいくつか頭にあった。言うなれば「将来のために大事に金庫に保管しておきたい」作品だ。
 たとえばそれはスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』であり、レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』であり、J・D・サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』や『フラニーとズーイ』であり、トルーマン・カポーティの『ティファニーで朝食を』だった。どれも僕が青春期に読んで、そのあとも何度か読み返し、影響を受けた作品たちだ。そこから豊かな滋養を与えられ、その結果自分でも(及ばずながら)小説を書くようになった、僕にとってはいわば水源地にあたるような存在だ。(中略)けっこう長い年月を要しはしたが、幸運にも恵まれ、また良き協力者も得て、それらの「取り置き」作品のほとんどすべてをひとつひとつ順番に訳して、世に問うことができた。そしてあとに残されているのは、このカーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』だけとなった〉

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2023年10月15日   今月の1冊


 才能あふれる現役医師作家が数多く登場し、医学エンターテインメントはさながら戦国時代。なかでも食の描写に秀でた書き手の発掘を目指して設立された新人賞「日本おいしい小説大賞」への応募をきっかけに2021年にデビューした藤ノ木優さんは異色の存在といえるでしょう。

 本作の主人公は、入局5年目の医師、北条衛。東京の大学病院で腹腔鏡のプロフェッショナルを目指し日々努力していたのですが、急遽異動を告げられ、緊張に身を震わせながら、伊豆長岡に降り立ちます。総合周産期母子医療センターにはその厳しさが東京まで轟く、三枝善次郎教授がいるのです。激務で知られる病院と鬼教授。衛の運命は一体どうなってしまうのか。前任者からは「でも、飯だけは美味いぞ」という言葉だけは聞いているのですが――。

 地域医療を取り巻くシビアな現実、若き医師の苦悩と成長、主人公を取り巻く個性的な医師群像――に加えて、とびきり美味い食! ありそうでなかった小説が、ここに誕生しました。書評家・杉江松恋さんも「今年いちばんの医療小説」と評価する『あしたの名医―伊豆中周産期センター―』。2023年イチオシのオリジナル文庫です。

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2023年10月15日   今月の1冊


 被害者も、家族も、友人も、作者も、編集者ですら、信じてはいけない――。
〈マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ〉シリーズで海外ミステリー・ファンにもおなじみの英国作家ジョセフ・ノックスの最新作は、これでもかというくらいに、たくらみに満ちた作品。一昨年の年末ミステリー・ベスト・アンケートでも話題をさらった『スリープウォーカー―マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ―』も、複雑な謎をからめたノワール小説の異色作でしたが、今回は、ノンフィクションの体裁をとった、かつてないほどに斬新なメタノワール・ミステリーに挑んでいます。
 なにしろ、著者であるノックス自身が登場し、しかもいくつかの事件については容疑者として扱われているのです。さらに、本作の作者であるからには、ここに記されている事柄はノックスの思うままに偽ることもできるということ。
 さらに、この作品を発表後、作者ノックスの情報はいっさい入ってきておらず、SNSもずっと更新されていないままなのです。

 事件の発端は2011年末。マンチェスター大学の学生寮から、一人の女子学生が姿を消します。彼女の名はゾーイ。7年が経過するも行方はわからず、世間の記憶も薄れてきた頃、作家イヴリンはこの事件に関心を抱いて、関係者への取材と原稿執筆を開始。作家仲間であるジョセフ・ノックスにアドバイスを仰ぐことになります。2018年、ゾーイの双子の姉キムが初めてマスコミ取材に応じ、事件は再度注目を集めることに。ところが、取材と執筆を続行するようノックスから助言されていたイヴリンは、翌年、拉致犯人と思われる人物を特定する証拠を入手した直後に死亡してしまいます。故人の遺志を継いだノックスが原稿の整理と追加取材を行って、『トゥルー・クライム・ストーリー(犯罪実話)』として彼女の遺稿を完成させるのですが――。
 関係者へのインタビューを中心に、イヴリンとノックスとのメールでの対話、新聞記事の抜粋、Facebookの書き込みなどから浮かび上がる失踪事件の謎にくわえて、新たに殺人までが絡み、その複雑な人間関係には著者ノックス自らも加わっているという、特異な形式で描かれる野心作です。
〈マンチェスター市警 エイダン・ウェイツ〉シリーズの著者がはじめて挑む単発物で、被害者も関係者も作者すら誰ひとり信頼できる者のいない、かつてないほど斬新なサスペンス・ノワールを、ぜひともお楽しみください。

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2023年09月15日   今月の1冊

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 1995年3月20日、月曜日。

 50歳以上の人ならば、東京の地下鉄が阿鼻叫喚に包まれ、路上で苦悶する人々を捉えたニュース映像を思い出すだろう。地下鉄サリン事件。この前年、オウム真理教は、長野県松本市でサリンを使った事件を起こし、ついに通勤時間帯の東京で未曽有の無差別テロを実行した。この朝、サリンの治療法を熟知していたのは、九州大学医学部のみ。九大チームは松本サリン事件でいち早く毒物を特定し、凶悪なオウム真理教と戦い始めていたのだった。

 オウムが引き起こした事件については、多くの本が書かれてきた。しかし帚木蓬生さんの『沙林 偽りの王国』(上下巻)は、医療従事者たちがいかにオウムと闘い、いかにカルトの闇に対峙したのか、その観点から、オウム事件の全貌を描き出していく。医師で作家の著者にしか描けない本書は、いままで例のない新たな視点でオウムの闇を問う大作である。

 当時、警察庁長官の立場にあり、銃撃事件の被害者でもある國松孝次さんは、巻末解説でこう記している。「本書は第一級の質をもっている」と。

 カルトの危険性を考える絶好の物語でもある本書は、刊行直後に早くも増刷した。「オウム」を名前しか知らない読者にも、ぜひご一読を賜りたい。

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2023年09月15日   今月の1冊


 吉田修一さんが週刊新潮に連載した小説『湖の女たち』が文庫化されました。本作品は琵琶湖畔の静かな介護施設で暮らす100歳の男性が、何者かによって人工呼吸器が外されて死亡し、滋賀県警の刑事が捜査するという、一見ミステリータッチの小説です。しかし、死亡した男性が若き日に731部隊に属していたことや、その後に薬害事件に関与していたことが徐々に明らかになり、現代的なテーマを孕むスケールの大きな作品になっています。介護施設で勤務する女性と刑事が陥るインモラルな関係やその激しい描写も大きな話題になりました。
 本作は福士蒼汰さん、松本まりかさん主演で映画化されることが決まっており、来年初夏公開の予定です。メガホンをとったのは大森立嗣監督。吉田さんと大森監督、二人のコンビはモスクワ国際映画祭で審査員特別賞を受賞した『さよなら渓谷』の映画化以来二度目。映画特設サイトでは衝撃的な特報動画が公開されていますので、ぜひご覧ください。

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2023年08月15日   今月の1冊