新潮新書

今月の編集長便り 毎月10日のメルマガで配信さている「編集長から」を「今月の編集長便り」として再録しました。こんなことを考えながら日々仕事しています。

重責と孤独

 就任早々に中韓両国を訪問し、首脳会談で友好関係を確認する――まさに新政権の門出を飾るにふさわしい外交の初舞台であり、本来であればテレビには意気揚々と帰国する安倍総理の姿が映っていたはずです。ところが、総理の韓国滞在中を狙ったかのような、北朝鮮の地下核実験。再三の予告で、日本政府もある程度は織り込み済みだったのかもしれませんが、ソウルの日本大使館からブッシュ米大統領と緊急電話会談を行うなどの対応に追われ、昨夜、夫人と一緒にタラップを降りてきた総理の姿は、かなり疲労の色が濃いように見受けられました。

 だいぶ前から「ポスト小泉」の本命と目され、実際に党内での地歩を着実に固め、自らの政治信条を披瀝した著作も上梓するなど、傍から見ればいかにも用意周到に万全の態勢で政権の座に着いたかに見える安倍総理。しかしその心中は、決意と迷い、自信と不安、勇気と恐れが入り交じっているのかもしれません。
 就任直前に「週刊新潮」に掲載された特別手記(9月28日号)を読むと、その微妙な心境が伺えます。特に興味深いのが、最近読んで面白かった本として、わが新潮新書の『嫉妬の世界史』(山内昌之著)を挙げていることです。
 本書は、歴史を動かした「大いなる嫉妬」のエピソードを通して、世界史を読み直した一冊。アレクサンドロス大王、カエサル、ヒトラー、スターリン、毛沢東……彼らの嫉妬がいかに歴史に影響を与えたか。あるいは、勝海舟に対する徳川慶喜、西郷隆盛に対する島津久光、石原莞爾に対する東条英機……その嫉妬がいかに国の命運を左右したか。古今東西の事例がふんだんに盛り込まれています。
 中には、「政治家の世界には、大臣病をあげるまでもなく、今も昔も嫉妬深い人が多い」「政治家や軍人の場合に、嫉妬が国の進路を誤らせる原因にさえなった事実を知ると、その恐ろしさを痛感せざるをえない」という記述まであり、本書を安倍総理がどのような思いで読んだのか、まことに興味深いものがあります。「週刊新潮」の続報によれば、実は小泉首相も在任中に本書を愛読していたのだそうです。

 政治というのは人間社会の縮図ですから、あらゆる感情が渦巻く世界です。その中心に立つ最高権力者の感じる風圧や孤独感は相当なものでしょう。
 総理の孤独――と聞いて私が思い出すのは、池田総理の秘書官にして大平総理とも関係が深かった伊藤昌哉氏の『自民党戦国史』です。いわゆる三角大福中の権力闘争を内側から描いて話題を呼んだ政界実録ものですが、「四十日抗争」を終え、1980年の参院選を控えた時期の大平総理の話として、こんなシーンがあります。前年末のアフガン侵攻でソ連の軍事的脅威が全面に現れたのを受け、伊藤氏が改めて「30年の平和など、いっぺんにひっくり返るかもしれない。今あなたが防衛問題に取り組まなければならない」と進言した。大平総理は防衛問題には慎重な姿勢を崩さなかったそうですが、ポツリと「おれだって不安だ」と漏らしたそうです。
 それからひと月後、野党から出された内閣不信任案に自民党内の反主流派が呼応して可決、解散総選挙となって、その選挙の最中に大平総理が逝去し、自民党が大勝したのはご存じのとおり。ちなみに、その不信任案可決の際、本来であれば福田派のプリンスとして議場内で賛成票を投じるはずが、議場の入り口で決断がつかないまま扉が閉められてしまい参加できなかったのが、安倍総理の父・晋太郎氏です。

 今月刊の『ホワイトハウスの職人たち』(マイケル・ユー著)は、アメリカ合衆国大統領という最高権力者の舞台裏に迫ったものです。ホワイトハウスや大統領夫妻の周辺にはどのような人々が働き、どのような日常を過ごしているのか。フランス出身の菓子職人、アフガニスタン出身の理髪師、シークレット・サービスの仕事から学芸員に転じた絵画選びのプロ……。有事に運び出す「名品」のランキングや、ホワイトハウスの間取り図も大公開。本書を読みながら、日米トップを取り巻く環境、仕事のインフラについて比較して見るのも一興かもしれません。
 それにしても、一国の命運を握る総理の仕事はたいへんな重責です。政治家の仕事で一番大事なのは、言うまでもなく国民の安全を守ること、外交と安全保障でしょう。特に近隣に北朝鮮のような国があるとなれば、わずかの油断が命取りになりかねない。『嫉妬の世界史』には、「国が国を嫉妬する」場合もあると書かれていますが、北朝鮮の振る舞いにも、現代世界や先進国に対する嫉妬のようなものを感じます。彼の国を突き動かしているのは、羨望、妄執、狂気といった、得体の知れない情念なのかもしれません。その正体を見極めつつ、毅然として、かつ戦略的に対処して欲しいものです。
 新潮新書の既刊では、日本の対北朝鮮対策については『自衛隊vs.北朝鮮』(半田滋著)、中国や韓国を知る上では『「小皇帝」世代の中国』(青樹明子著)、『貝と羊の中国人』(加藤徹著)、『韓国人は、こう考えている』(小針進著)もおすすめです。

2006/10