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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第18回 やァ、よく来たね

 執筆業のような、いわゆる自由業は日曜も祭日もない、と言えば聞こえはいいのですが、まあ一年中休日のようなもので、時間は誰かに管理されているわけではないので所属する組織に許可を得る必要もなく、基本的には自分の判断で自由に時間を使うことができます。ですから旅行やお里帰りが集中する夏休みの時期や年末年始、ゴールデンウイークは、必要不可欠の場合以外遠出はしないように心がけているのですが、これは、まあ、一種の嗜みではないかと、勝手にそう思っております。

 私自身、子どもの頃は親戚の家などを訪ねることもあり、そんなときは「やァ、よく来たね」と伯父や伯母が玄関先まで出迎えてくれたものですが、そういう人たちはもうずいぶん前に鬼籍に入ってしまいまして、どこの家も子から孫へと世代が移っておりますので、親戚同士の付き合いも間遠になりました。それに私自身八十路の道を歩んでいるわけですから、本来なら「やァ、よく来たね」と迎える立場であるはず。でも、そのための準備をしないですんでいることを、仕合せと考える不届き者でございます。

 ところが、こんな不届き者でも「やァ、よく来たね」と迎えてくださる方がおいでになりました。当地の神様です。用明天皇が疫病を鎮めるために宮居からお移しになったと伝わる菅生石部神社の日子穂穂出見命(ヒコホホデノミコト)、豊玉毘賣命(トヨタマビメノミコト)、鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)の三柱。この神々は両親とそのご子息です。家族そろって移動するなんて妙に生活感がありますね。最初の神様「ヒコホホデミノミコト」は、高天原から日向(宮城県)の高千穂の嶺に下っていらっしゃった天孫降臨で知られる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の息子であり、神武天皇の祖父にあたる神様で、山幸彦(ヤマサチヒコ)という名前でも知られています。

 山幸彦には海幸彦というお兄さんがおりまして、文字通り二人はそれぞれ山と海とを領分にして生活していました。ところがある日、持ち場を交換してみようということになり、山幸彦は海に海幸彦は山に行ってそれぞれ獲物を追い求めましたが少しも成果が上がらず、やはり慣れた場所の方がいいという結論が出ました。ところが山幸彦は兄から借りた釣道具の針を失くしてしまい、兄に謝ったのですが許してもらえません。仕方なく山幸彦は海に入って行ったのですが、竜宮のお姫様の協力で鯛の喉にひっかかっていた針を見つけることができたうえ、そのお姫様と結婚しましたとさ。めでたしめでたし、という逸話ですが、めでたくないのがお兄さんの海幸彦。弟はきれいなお嫁さんをゲットしたお陰で竜宮の王様と縁続きになり、山野の狩猟権のほかに漁業権まで手に入れてしまったのですから。こんなことなら針なんか探させなければよかったと、後悔しても後の祭り。海幸彦には運がなく、山幸彦は今でいう「持ってる人」だったのでしょう。

 この「持ってる人」が菅生石部(すごういそべ)神社の神様なのです。御祭禮は冬と夏の2回。冬は以前ご紹介した竹割まつり。夏は天神講です。天神様と言えば菅原道真。拝殿の東側に地名をつけた敷地天神のお社があります。開設については諸説ありますが、いずれもはっきりしておりません。ただ私は勝手にこう考えております。加賀は雷の多い所。かつては大きな被害も多々あったようです。不遇のうちに生涯を終えた菅原道真は雷となって政敵に祟ったと言い伝えられておりますから、魂鎮めの意味があったのではないかと。そして雷になったことで菅原道真は知る人ぞ知るといった程度の地味な高級官僚から全国区の有名人になりました。やはりなにかを「持ってる人」だったのですね。

 天神講は7月24日、25日、26日と三日間も行われます。奉仕される神事は毎日違いますが、基本になっているのは開闢以来連綿と伝えられている疫病退散の祈願です。そして、かなり後世になってから天神講と名付けられたと思いますが、この神社では天神様は決して菅原道真公個人のことではなく、天の神様の意であるといわれています。

 神事の中でも特に、真夏のギラギラ照り付ける日差しの下、境内に設置された茅の輪を大勢の神官が真新しい白装束で次々に通過して行く光景は壮観です。神官さんの後は参詣人もくぐります。作法に従って左右左と巡りながら3回くぐるのです。私もくぐりました。生まれて初めての経験です。そのときです。「やァ、よく来たね」。どの神様かわかりませんが、1400年前の神様が親戚の伯父さんのような口調で声をかけてくださったように思えたのです。きっと神様は毎日、訪れる参詣人を「やァ、よく来たね」と迎えていらっしゃるのでしょう。

 因みに三十一代用明天皇は渡来したばかりの仏教に注目した方で、聖徳太子のお父さん。菅生石部神社が文化の渡来ルートである日本海側のこの地に出来たのもなにか、そのことに関係があるのではないか? 新しい疑問にワクワクする今年の夏です。

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菅生石部神社の「茅の輪」も「やァ、よく来たね」。
(撮影/野根茂治宮司)

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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