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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第90回 ここは何処? わたしは誰?

 イギリスには「3月はライオンのように来て、小羊のように去る」という天候のことわざがあるそうです。月の初めは荒れた天気が多いけれど下旬になると、すっかり春めいて、穏やかないい陽気が続くということのようです。確かに3月の初旬は、まだまだ冬の気配が残っていて衣服なども冬物から抜け出すことができませんが、下旬になると急に空気が春めいてきて、木々に新芽が吹き出てまいりますし、鳥の鳴き声がしきりに聞こえるようになります。それからぽつぽつと花便りも。

 日本にも春の訪れ方を表わす「三寒四温」という言葉がございますね。春めいたかと思うと突然寒くなって雪が降ったり氷が張ったりと逆戻りする気候は、なんとなく思わせぶりな女の子をイメージさせますが、今年の春は、そんな陽気な気配を見せないまま、極端な寒暖の差を繰り返しました。さらに5月に入ったというのに所によっては雪や霙が降ったりという異常気象が続いています。普通なら「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の初夏を感じる時候でしょう。

 芝居では「かっつォかっつォ!」と威勢のいい掛け声を聞かせながら棒手振りの魚屋が登場し、手ぬぐいゆかたで身を包んだ湯屋帰りの新三に呼び止められて、舞台上で初鰹をさばく様子を見せる、通称「髪結新三」がよく上演される5月ですが、コロナに加えて気候がこう不順ですと、季節感などというものは味わえなくなっておりますね。

 新聞を見ますとすでに鰹の水揚げ量が減っているとの記事が見受けられます。温暖化の影響もあるのでしょうが、鰹漁といえば日本では、定評のある一本釣で、それが又、鰹の値打ちを高め、鰹を好む日本人の資質にも適っていたと思いますが、近頃急激に食材の範囲を海産物にも広げてきた諸国が、外洋で回遊中の魚群をまき網で大量に浚う漁法をとっているため成長過程にある幼魚ごと獲られてしまい、成長した鰹が日本近海までなかなか辿り着けないのだそうです。

 そのうえ、大量に捕獲されてしまった幼魚たちは、哀れ、雑魚として粉砕され、ふりかけの素材の一部として輸入される運命を負わされてしまうそうです。江戸っ子たちが新鮮な一切れを味わうことを誇りとしていた「初鰹」の栄誉も知らぬまま。

 そういえば、この冬、加賀の国の極寒期の名物食材である鰤の存在も大変希薄になっておりました。加賀の雷の最盛期は冬です。こちらに移転してすぐ、当地の方々から並大抵の雷鳴ではなく、家鳴り震動して停電はしばしば、落雷すれば火災が発生するし、落命することもあると伺いました。現に広いお庭の一隅にあった離家が落雷によって燃えてしまったという、その跡地を見たことがあります。

 でも加賀の冬の雷は「鰤起こし」といって鰤の最盛期を伝える待望の雷鳴なのです。およそ天災というもの、どんなに人間が抗っても抗いきれるものではありませんけれど、雷は強烈な閃光と轟く雷鳴で、大変分かりやすく襲ってくるせいか、あまり悪意を感じず、むしろ雷様と敬称をつけて呼んだり、そのイメージは親しみやすい形象に造型されたりしておりますね。

 ところが昨年の末から新年にかけて、家鳴り震動するような雷鳴を一度も聞きませんでした。たまに雷鳴を聞くことがあっても情けない、ひょろひょろした音ばかり。案の定この冬は、北陸のお刺身としては最高と思う(個人の感想です)寒鰤にほとんどお目にかかれませんでしたし、せっかく覚えた「鰤大根」の煮物もついに腕を試す機会がありませんでした。

 冬の間はスーパーの魚売り場に必ず並んでいるはずの鰤の切り身がまったく見られなかったのです。やっと見かけたときは春先。しかも値段はいつもの倍近くする高値のうえに「養殖」の文字が添えられておりました。

 マグロの養殖はつとに有名で、かなり上等なお料理屋さんのお刺身でもお目にかかるようになりましたが、鰤の養殖は初めて知りました。しかも地元特産で冬の到来を告げるはずの鰤が、県境をいくつも越えた遠方から、衛生管理の行き届いた環境で人間の手によって見事に養育され、切り身になった姿で魚売り場のセンターに並べられていたのです。

 すでに冬大根の最盛期は終了。遠来の鰤に罪はありませんが、私風情の腕前で、こんな高貴な鰤を料理するのはおこがましいと、理屈をつけて自前の鰤大根を諦めました。そしてついに地球温暖化の現状が身近になったかと、些か不安に襲われた昼下がりでした。

 北極の氷が解けて白熊が絶滅の危機に迫られ、南極へ移動させようと考えている団体もあるとか。でも、そうしたら天敵のいない環境での生活に慣れているペンギンやアザラシが無抵抗のまま餌食になって、今度は彼らが絶滅危惧種になってしまい、別の環境に移らなければならなくなるのでしょう。白熊は北極に、ペンギンは南極に、そして鰤は北陸の海に12月の雷鳴と共に現れて欲しいものです。

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カツオ(左)もブリ(右)も、江戸時代から庶民に愛されていたようです(広重「魚づくし」より)
※出典:WIKIMEDIA

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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