竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第67回 どんなもんだい!

 私の母は84歳で亡くなりました。もう40年近くも前のことです。

 当時は70代で亡くなる方が多く、正直なところ私は、 --お母さんはいくつまで生きる気だろう?-- と、恨めし気な目で見ておりました。

 なにしろ格別な病気もせず、毎月、好きな芝居に出かけ、帰宅すれば1週間くらいはその芝居の話で盛り上がり、テレビでアメリカの連続ドラマ「大草原の小さな家」を見ては、タイトルバックの映像に三女のキャリーが映ると「あ、あの子、転ぶのよ」と予告し、その通りになると「ほらね」と満足そうな顔をするのです。


 80を1つ2つ過ぎた頃からでしょうか、母は少しずつ衰えを見せ始めるようになりました。だんだんに食が細くなり、起きている時間が短くなり、やがて布団から出なくなって20日ほどで息を引き取りました。いわゆる老衰でございますが、死亡届は肺炎か、心不全になっていたと思います。

 息を引き取る少し前、自宅へ見舞いに訪れてくれた友人が「お母様、いい匂いがする」と言いました。そう言われてみると、ほのかにオレンジの香りが漂っているような気がいたします。その日、オレンジを食べたわけでもなく、オレンジの芳香剤を使ったわけでもありません。いずれにしろ母は、なぜか芳香を漂わせ、どんどん小さくなって、可愛くなって、きれいになって、ますます口調が丁寧になっていきました。たまたま窓際まで伸びた紅葉(もみじ)の枯れ枝に鶯がとまって一声鳴いたときは、私が「お母さん、鶯よ」と申しますと、 ―まあ― というような顔つきをします。それ以外は目をつむっているか、どうかすると目を開けてじっと何かを見つめている、というような日が何日か続きました。

 そんなある日、話しかけていた私の顔をじっと見てから母は「こんなによくして頂いて......」と呟きました。今更何を言っているのだろう、と半分照れながら、精いっぱいの笑顔で首をかしげました。大人になってからの私が母と話をするときは、たいてい仏頂面をしていたのですが、最後の1年間は、必ず笑顔で接するように心がけておりました。

 しばらく間があってから母はまた薄い声を発しました。

「わたしには、あなたがいるけれど、あなたには、あなたがいない」

 離婚した私の老後を案じての一言です。

「大丈夫、なんとかなるから」

 私のあやふやな気休めが聞こえたのか聞こえなかったのか、母は生まれたばかりの赤ちゃんのような邪気のない顔つきで目をつむっておりました。

 その頃、私は毎晩母のベッドの傍らで横になっておりましたが、何日目かの夜中、突然母の「ハーイ」という大きな声で飛び起きました。

 誰かに呼ばれた夢でも見ているのでしょうか、母は少し笑みを浮かべた顔で目をつむっておりました。元気なときでも普段、こんなに大きな声を出したことはありませんのに、ほんとうにビックリするくらい大きな声でした。「お母さん、お母さん」と2、3度声をかけましたが、母は穏やかな顔で目をつむったままです。

 どのくらい、そうしていたでしょうか、どうやら私、うとうとしてしまったようです。ふと母の顔を見て「お母さん」と声をかけましたら、母の表情は「ハーイ」と言った直後とまったく同じでした。でも何かが違う。

 母の胸元にそっと手を置いてみました。掌には、なにも、伝わってまいりませんでした。すぐに ―死んだのだ― と思いました。

 夜中の、あの「ハーイ」という大声は返事でしょう。誰かに呼ばれたのです。父かもしれません。父が亡くなってから15年の歳月が流れておりました。そして、その日、東京には珍しい大雪が降りました。


 慌ただしくお通夜、葬儀がすみ、まる2日間、大勢の人が出入りしていた自宅に一人きりになったとき、私はたくさんの花に囲まれた母の骨壺の前に座って ―お母さんに逢いたい― と思い始めていました。そう思った途端、とても、とても逢いたくなって、どうしても逢いたい、どうすれば逢える? そうだ死ねば逢えるんだ! という所にまで辿り着き、次の瞬間ふと我に返ったのです。そして声を上げて泣き出しました。どれくらい泣いていたでしょう、覚えておりませんが、翌朝起きたとき眼がはれ上がっていて、とても他人様にお目にかかれる状態ではありませんでした。

 そのとき、40代であった私も、まもなく83回目のお誕生日を迎えます。同じ年頃であった母の日常を考えますと、信じられないほど今の私は元気で、日々の暮らしは多彩です。しかも生まれたときから死ぬまで、江戸城の外濠沿いのごく限られた地域で過ごした母と違い、私は80歳を目前にしたときに住み慣れた故郷を出て、特別の縁故もない北陸の地に終の棲家を構えました。当然、母が心配したように私には私がおりません。けれども今の私には大勢の他人がいてくださいます。ですから毎朝、まず他人である天神地祇にご挨拶をし、次に仏壇の先祖に向かってお線香をあげ、合掌して呟きます。「どんなもんだい!」

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父と母の結婚式の写真。昭和2年8月、上野・精養軒にて。
昭和20年4月13日の空襲で家ぐるみ家財一切を焼失した我が家で、唯一戦災を免れた箪笥から出てきた写真です。
第28回「プロの仕事」参照。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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