竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第83回 消えゆく英雄

 歴史は勝者の記録と申します。一瞬「ずるい!」と思いますが、当然といえば当然でございますわね。なん百年もなん千年も時の権力者の思考が一直線に続くはずがございませんもの。否応なく時間は時々刻々前に進んで行くのですから、その時代時代で先人の足跡に違和感を覚え、その時の世情を鑑みて権力者が、自分を信じて過去の足跡を塗り替えていくのが、たぶん政治というものなのでしょう。

 こんなことが柄にもなく頭をよぎったのは、中国共産党中央委員会第6回全体会議で審議された「歴史決議」の情報を知った時でした。なんでも創立100年の節目を迎えた中国共産党の歴史を振り返り、新たな方針を指し示すための会議で、この決議が行われたのは毛沢東主席時代の1945年と鄧小平主席時代の1981年の2回だけだそうです。いずれも以前の指導者を否定し、自らの路線を正当化する要素の強いものであったが、今回は歴代の指導者の功績を認めつつ現主席の実績などを盛り込んだ内容である、というようなことを、テレビニュースやらウェブニュースやらで知ったわけです。

 日本国内の政治さえ満足に理解できない私が、外国の政治に格別な興味をもつことなどあり得ないと私自身が思っておりますのに「歴史決議」の文字に魅かれましたのは、小説や舞台台本を書くにあたって歴史的事実を探索してまいりました経験が、少しばかり影響しているのかもしれません。

 頼りにするのは著者の私感の入っていない史料。同じ時代を生きた人が記録として書き残した文書が特に大切です。ところが一級史料として専門家が認め、書籍として出回っているものは大方、その形になった時点で時の政治力によって多少の手が加えられております。つまり有史以来、現代に至るまで不都合な記述は墨で塗られたり、書き換えたりすることは時の権力者の常套手段だったと思われます。


 そのいい例が本年、没後1400年の御遠忌を迎えた聖徳太子。仏法から学んだ知識を駆使して東のはずれの小さな島国を「日本」という国家に昇格させ、疫病対策に心身を捧げた結果、太子信仰と呼ばれるほどの信頼を長い間受けてこられましたが、そんな功績をもつ方でもその時々の権力者の思惑次第で上げたり下げたり。戦前、戦中、戦後の混乱期を通じて国の内外から無難な人物として選出されたのでしょうか、かなり長期間、高額紙幣の肖像写真に登場していらっしゃいましたが、近年、その実在を疑問視する説も出て、影の薄い存在になってしまいました。従来の史料の不備や解釈の違いによる変化なのでしょうか、それまでの遥かな時間の推移の中で光り輝いていた英雄がいつのまにか消えていることに戸惑いを覚えてしまいます。

 同様に近頃とんと・・・見かけなくなったのが「忠臣蔵」の文字。なんといっても歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」が有名で、視点を換え、背景の世界を換え、時代を換えて数多の「忠臣蔵」が上演されておりますし、映画やテレビでも数えきれないほどの作品が創られておりました。なぜ、そんなに人気があったかと申しますと、社会人の大多数が、身に覚えがありそうな経緯が随所に出てくるからです。当今いうところのパワハラ、モラハラ、セクハラに加えて、コンプライアンス無視で理不尽がまかり通る世界なのです。しかし残念ながら、それを証明する史料はほとんどありません。

 事件の発端となったのは元禄14(1701)年3月14日。江戸城内松の廊下において赤穂藩主、浅野内匠頭が高家筆頭、吉良上野介へ刃傷に及んだ事件です。理由は不明。徳川幕府の公式史料『徳川実紀』には、ただ「宿意ありといひながらちいさき刀もて切付きりつけたり」と記されているだけ。そして裁判もなく、その日のうちに浅野内匠頭は切腹。家は断絶、領地没収となり、千人を超える家中は全員、職を失って路頭に迷うことになりますが、吉良の方は2か所斬り付けられは致しましたが軽傷の上に幕府サイドの手厚い介護やお見舞いなどを受ける好待遇。不公平ではないか、と浅野家の浪人たちが思うのも無理ではないでしょう。そして、何より不可解なのは「宿意」の内訳が全く不明なことです。

 『徳川実紀』には後年書き加えられたらしい「上司に送るべき賄賂を送らなかったことが宿意の発端」という意味の記述がありますが、これも巷の噂話と断っておりますので信じられるものではありません。おそらく幕府内部の公的事情が潜んでいるはずと拙著『白春』で些か私感を述べましたが、いつの世も実権を握る人物がその時々に応じて「記録」を塗り替え、「歴史」を作り変えることで政治の正当性を図ってきたのだと、近頃ますますその思いを強くしております。

 忠臣といえば昔は弱者側に味方する臣下をさしたものですが、強くなければ生き残れない社会となった日本。これも消滅は免れませんでしょうね。

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『新訂増補 國史大系』(吉川弘文館)では、『徳川實紀』は全15巻にもなります。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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