竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第64回 うぬぼれ鏡

 朝、鏡の中に自分の起き抜けの顔を発見したとき、ぎょっといたします。夜、いざ寝る時間になってもなかなか訪れてくれない睡魔が、起床時間になるとすっかり居座ってしまう悪循環に慣れているものの、眼はしょぼしょぼ、髪の毛はもじゃもじゃ。我ながら見るに忍びない惨めを極めた顔がそこにあります。その状況は人生80年余り、鏡を気にし始める思春期の頃から数えましても70年、慣れっこになっておりましたが、加賀に移住して3年、終の棲家に落ち着いてほぼ2年、朝見る鏡の中のわが顔に異変が生じてきたことに気がつきました。なんと、朝は、肌が一日中で一番きれいなのです。しかも、耳から顎にかけての稜線も(若い頃のようにシャープとは言えないまでも)一応認められるではありませんか。

 うぬぼれるなっ!とお叱りの向きもおありと存じますが、そうなのです、おっしゃる通り「自惚れ」ることができるのです、この鏡。昔、母が言っておりました。鏡に悪意はないのだろうけれど中にはうぬぼれ鏡があって、実物よりきれいに見えてしまうことがあると。光線の加減か、或いは鏡そのものの質によるのか原因は定かではありませんけれど、どうやら我が家の洗面所の鏡もその類のようでございます。しかしながらうぬぼれも朝のほんのひとときの夢。お昼近くになれば当然、引力に逆らえなくなった皮膚が弛んできて、耳から顎にかけての稜線も見事に消滅しております。それでも、たとえ束の間でもうぬぼれさせてくれる要因は、以前と違って睡眠の深さにあるのではないかと思っております。

 睡眠時間は平均6時間ほどですが、まず寝つきがいいこと。ベッドに横たわると、ほとんど10分以内で寝入ります。そして3時間くらい経つと一度目が覚めますが、そのとき、とても長く眠っていたような安心感に浸れるのです。それから、またぐっすり眠れることもあれば朝までうつらうつらと過ごしてしまうこともありますが、初めの眠りが深かったことであまり気にならず、毎朝、決まった時間(夏は5時。10月から5月までは6時)に起きることができます。そしてこの肌の変化は、精神的な安定だけではなく、どうやら土地柄に原因があるらしいことも分かりました。暑さ寒さに関係なく湿気が多いのです。単に湿気が多いというだけでなく「加賀便り第5回 下天の内を比ぶれば」にも書きましたように北陸のお天気は気まぐれで、日が差しているかと思えば突然雨または雪が降ってまいります。それも、いきなり大粒です。空を見上げますと、私の歩いている所の雲だけが灰色で、少し先の空は真っ青。雲間から日が差しているなんてこともよくあります。そして降ったりやんだりの繰り返しが1、2時間続きます。なんでも1年間の降水量は沖縄県を抜いて石川県がトップだそうで、この事実を知ったとき、冬は連日カラカラで加湿器が必需品の東京の生活に順応している私が耐えられるのかと、加賀への移住を少しためらいましたが、慣れてみますとそれほど苦にもなりません。住めば都とはよくいったものでございますね。

 それはさておき「11月12日」は何の日かご存じですか?「いい皮膚」の日だそうです。この日、株式会社ポーラ主催の「新・美肌県グランプリ2020」という催しがあり、総合1位に石川県が選ばれたとネットのニュースで知りました。張りや透明感、毛穴が目立ちにくいとか、コラーゲン、水分量などを厳密に分析するようです。1位になった理由として質の良い睡眠、豊かな食文化、行き届いた紫外線対策、そして1年の内半分以上が雨か雪という気象条件などが挙げられておりました。

 確かに紫外線対策は皆さん行き届いていらっしゃいます。農作業をするときも、外出の際も、頭からすっぽり肩まで覆う頭巾を被り、車での移動の場合は肘まで覆う手袋をつけています。因みに2位は秋田県、3位は山梨県でした。過去5回も総合1位の栄誉に輝いている島根県は今回、圏外になってしまったそうですが、お隣の鳥取県は14ある部門賞のうち4つの部門で1位を獲得しています。

 そういえばテレビでよく見かける化粧品のコマーシャル。当地に参りましてからは内外の有名なブランドのCMをあまり見かけません。ほとんどが地元或いは近県のメーカーの製品で、それも圧倒的により美しい肌への誘導を約束する基礎化粧品が多いのです。マスクが必需品となっている時節柄、口紅や頰紅の需要が激減している影響もあると存じますけれども、これだけ多くのご当地メーカーが挙(こぞ)って基礎化粧品を提供するだけの美肌への意識が、利用者側に十分整っていたのだと思います。

 実際私の知る限り皆さんお肌がきれいです。お隣の90代の婦人も、矍鑠(かくしゃく)としていらっしゃるだけでなく、ショートへアがお似合いで、朝も昼間も夕方もお肌も表情もお声も明るく、頭脳ももちろん明晰です。うぬぼれ鏡の出番は生涯ないでしょうね。

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日ごとに大聖寺川を泳ぐ鴨の数が増えてまいります。
冬になるのですね。
(写真提供/のねさん)

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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