父は薬が好きでした。私が物心ついたときには常に、お茶の間のガラス戸棚に薬の瓶が沢山並んでおりました。その家は太平洋戦争末期の昭和20年4月、米軍の空襲下、焼夷弾の直撃を受けて跡形もなく焼けてしまいましたし、その直前に母と姉と私の3人は、父だけを東京に残して疎開しておりました。
4か月後、終戦。翌年の2月、周りは一面焼け野原ながら元の場所に2間の家を新築することができまして、また一家4人がそろって暮らせるようになったわけですが、その頃の食卓には再び見慣れた薬の瓶が1、2本載るようになっておりました。今になればその薬瓶の中身は特別に処方された薬ではなく、「エビオス」とか「わかもと」とか、至ってシンプルな保健薬であったと知れますが、その手の薬が我が家には、食べる物にさえ不足していた時代にもかかわらず山ほどありましたし、富山から定期的に訪れては薬を置いて行く、いわゆる「富山の薬」という置き薬とのご縁もかなり長い間続いておりました。
だからといって父が本気で薬を信じていたかというと、どうもそうではないらしいのです。我が家には父が信頼するホームドクターがおりまして(父の飲み友達でもありました)娘たちの体調が悪くなりますと即座に(たとえ真夜中でも)駆けつけてくださいます。ですから私たちは、この先生の処方してくださった薬以外、ほとんど吞んだ経験がありませんでした。従いまして食卓の常備薬に対しましてもあまり積極的ではなく、ごく稀に父が極めてさりげなく瓶の薬を何粒か掌に受けて口のなかにぽんと放り込むくらい。たぶん、父は瓶の口元まで詰まっている錠剤がちっとも減らないために自分から率先して吞まざるを得ない状況に追い込まれていたのだと思います。
では、なぜ父がそんなに薬にこだわっていたかと申しますと、おそらく姉が病気がちだったからだと思います。姉は6年生のとき虫垂炎に罹りました。戦時中のことでホームドクターが軍医として任地に赴いていたため博士号を持つという、ほかの医師の診察を受けたところ誤診されてしまったのです。そして腹膜炎になり、長い入院生活を送ることになってしまいました。そのときのことが当の姉にも、父にもトラウマになっていたのでしょう。なにはなくてもまず保健薬という心構えが出来上がってしまったのではないかと思います。
そのうちにも戦争はますます激しくなってまいりました。すると女学校1、2年の少女にも勤労動員が発令されて、姉たちは毎日学校ではなく、まったく未知の世界である工場に出向くことになりました。
戦後、だいぶ経ってから「何を作る工場だったの?」と私が訊きましても姉は「分からない」と答えます。さらに「毎日なにをしていたの?」と問いますと「なにもしなかった」と言います。「なにもしないって、どういうこと?」「私たちにやれることがなかったんじゃないかなァ?」といった具合。無理もありません。姉はたちまち肋膜炎になり、長い休学生活に入ってしまったのです。そして空襲があり、私たちは疎開し、終戦になって元の場所に戻り、不足がちながら家族の日常生活が続いていたわけです。
しかし(私は全く気がついておりませんでしたが)その間も父は、長女の治癒を願い、従軍生活から元の開業医に戻っていたホームドクターの助言を得ながら、新薬パラアミノサリチル酸、通称パスの投薬、さらには当時話題の抗生物質ストレプトマイシンの手配に全力を注いでいたようです。姉の病気は肋膜炎から肺結核に発展していたようでしたが、年端も行かない娘であることを考慮したことと、幸いにも開放性ではなかったことであえて隔離療養をせず、自宅療養を続けておりました。この方針もホームドクターが、懇意の結核専門医の協力を得て決めてくださったことです。この専門医も自宅から程遠からぬ女子医大に所属する女医さんでした。
ストレプトマイシンは経口ではなく筋肉注射によらなければならないため、ホームドクターは毎日姉の病床を訪れて筋肉注射を行い、母は姉を連れて定期的に女子医大に通院し、担当の女医さんの診察を受けていたようです。そして幸いにも姉は一命をとりとめ、結婚のご挨拶に伺うまでになりました。そのとき女医さんがおっしゃったことは「私が治したのじゃありません、お金が治してくれたのよ」だったとか。
最近テレビの戦後史のような番組でストレプトマイシンについての報道を見かけることがありますが、その効果と共に経費の大きさがよく話題になっております。私の着るものがほとんど姉の「おふる」だったわけに、今さらながら納得している今日この頃でございます。
ところで姉は、69歳で生涯を終えた父、84歳で他界した母、さらには身内も及ばないほどに姉の回復にご尽力くださったホームドクターよりも命永らえ、本年満90歳の春を迎えております。