竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第68回 命の洗濯

 PCR検査を試みました。2月26日のことです。翌日の朝、電話で陰性との報告を受けました。呆気ないくらい、あっさり関門を通過した感じ。

 検査方法は太めの変形試験管のようなものに、かなりの量の唾液を溜めて提出する方法と、鼻腔を長めの綿棒のようなもので20秒くらいくるくると撫でまわす方法と2種類ありまして、私は鼻腔の方でやって頂きました。

 それと申しますのも、まずは唾液検査法を試みたのですが、そのための必要量を確保できなかったからで、看護師さんが担当の医師に「ご高齢で唾液があまり出ませんので鼻に切り換えます」と報告している声が聞こえました。

 まあね、赤ちゃんなら常時お口から涎(オヨダ)を流出するのがお仕事のようなものですけれど、看護師さんのおっしゃる通り高齢者には無理な仕事でございますわね。どうやら鼻腔の方は子どもさんなど、泣き出す場合もあるようですし、多忙を極めていらっしゃる医師の手も煩わせることになります。その点、唾液の方は"試験管"を渡しておけば被検者本人が一人でできることなので、場合によっては駐車場の車内でもよく、終了後その容器を医院内の担当者に渡せば完了というわけです。ネットで検索しますと、この唾液を容器にとる方法は郵送でも可能だということで、移動が難しい方には朗報といえましょう。

 加賀の住人になりましてから間もなく4年。そのうちの3年は月に2、3度、東京を始め京都、大阪、名古屋などへ出向いておりましたのに、昨年2月25日に東京から戻って以来ちょうど1年。県外どころか市外へもほとんど足を踏み入れておりませんでした。しかしながら著述に関する生業を一切辞めたわけではなく、また、改めて私も文章修業をしたいと思い立ったこともあり、ささやかながら毎日、人生最後の挑戦を続けておりますので、オファーを頂くこともございます。

 折から聖徳太子没後1400年御遠忌にあたる本年、その大法会の一環として行われる新作能「聖徳太子」執筆のご依頼を頂きました。

 近年はその存在さえ疑問視されるような学説も紹介されておりますが、日本史上重要な意義をもつ足跡を遺されていることに違いはありません。大変光栄なことと感じて、もちろんお引き受けいたしました。そして、ほぼ1年にわたってご専門の先生方にご教示頂きながら書き終え、過日、その記者発表が大阪で行われました。それで1年ぶりの遠出となったわけでございます。

 そうなりますと心配の種は、やはり新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染の有無です。帰宅直後にPCR検査をする必要があろうと市役所や医療施設に問い合わせましたが、現在私が居住する地域には該当する施設が皆無でした。そこで県外も含め手当たり次第に問い合わせましたところ、福井市内に快く引き受けてくださる医院に行きあたり、日頃親しくお付き合い頂いている知人が案内役をお引き受けくださったこともあって、万事都合よく事が運びました。

 福井は県外とはいえ、場所によっては県内よりも近いのです。そして上記のような経過で検査して頂き、翌日の朝8時30分に「陰性です」という電話連絡を頂きました。まずは一安心。しかしながら料金が高額(1万8000円~2万5000円。証明書が必要な場合は+2000円)なので用心のためとはいえ、外出の度に検査することはできません。

 東京には、かなり簡便な方法でPCR検査が受けられる施設が随所に設置されているようですが、地方では無理でしょうね。人口の問題もありましょうが、やはり各人の新型コロナウイルスに対する意識の度合いも違うように思えます。ネットには、PCR検査についていろいろな情報がアップされておりますので、当然、皆様よくご存知だと思っておりましたが、意外にも検査を受けていない方が多く、また、検査方法についても興味をもっていない方が多いことを知りました。でも、そういう方でもワクチンには期待していて、その普及速度の遅いことを嘆いていらっしゃる方もおいでです。

 どうなのでしょうね、ワクチンに全幅の信頼を置きたい気持ちはありますが、ジェンナーが種痘に成功してからWHOが天然痘の根絶を発表するまでに約200年かかっておりますし、日本に多いといわれる肺結核は長い間不治の病といわれながら一応、完治する病気にはなりましたが、未だに根絶までには至っておりません。新型コロナウイルスの恐怖から逃れられるのはいつになるのでしょうか?

 などと、先の見えない心配をしても始まりません。PCR検査の結果にとりあえず安心いたしまして、自粛自粛で久しく絶っていた外食に同年輩の親しい知人と出かけました。

 いつも行き届いたサービスをしてくれるお店にはその日、その時間、客は私たち二人きり。久しぶりに満足できる美味を堪能しつつ、見えざる敵の存在をしばし忘れました。

068-1.jpg
北陸、早春の美味のうち「前菜」をお目にかけます。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

ブログ記事検索