竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第88回 なぜ、今?

 21世紀になってすでに20年余り経ちました。それなのに突然、100年前のニュースが紛れ込んだか?と思えるような発言が、全世界に伝えられました。「世界で最も強力な核保有国の一つ」であると。

 紛れもない大国であるロシアの大統領の発言です。そして程なく国境を接するウクライナへの軍事侵攻によってその実力が示されました。

 実際には、すでに1年前からウクライナ侵攻の計画があったといわれてもおりますし、直前に自ら指導した軍事演習ではICBM(大陸間弾道ミサイル)などを発射したという報道もあります。有効射程距離は5,600km(8,000km以上との説も)。場所によっては大西洋を越えて他国に届く距離でしょう。怖いです。とても怖いです。そんな武器を使って戦争をしかけるとは。まるでそうすることに正当な大義名分があるかのように、いとも簡単にプーチン氏はテレビカメラの前で宣言していました。

 そして次のニュースで私が目にしたのは、ウクライナに向かう戦車の列を俯瞰した映像や、逃げ惑う人々、地下のシェルターに身をひそめる人々、破壊された住居の数々、その瓦礫の只中に突き刺さったミサイルの残骸、そんな惨劇の中に響く新しい生命の産声などです。本当にリアルタイムで私たちは、あっという間に起こってしまう戦争というものの現実を、安全な場所に身を置きながら体感したのです。意外でした。実際に戦争が起こるまでにはもっと複雑な経緯があったり、宣戦布告があってから多少の時間がおかれたりするものと勝手に思っておりましたので。

 戦時下の生活には一瞬たりとも安らぎはありません。太平洋戦争末期、昭和20年春、私は小学1年生から2年生に進級するころでした。

 この時期、すでに東京には毎日空襲があり、飛来する B29の不気味な音を耳にするのは常識になっておりまして、寝るときも寝間着に着かえることはなく、いつでも避難できる態勢を強いられておりました。そして空襲警報が響いてきますと防空壕に避難いたします。防空壕と申しましても現今見聞するような、核爆弾をも防げる地下シェルターといった堅固なものではなく、庭の一隅とか自宅の縁の下を掘り返して数人が籠もれる程度の空間といったものです。

 小学生だった私は、家屋を支える土台石や、むき出しの柱などを見るのが面白くて、玄関わきにできた急拵えの防空壕に梯子を伝って降りては、わざわざ裸電球を頼りに教科書を広げたりしたものでしたが、後日判明したことは、こんなチャチな防空壕など害あって益なしということでした。

 爆撃を受けたが最後、出入り口が塞がれて身動きが取れず、蒸し焼き状態になるというのです。事実、避難したために命を落とした人も大勢いたそうですし、逆に、防空壕が満員で、やっとたどり着いたのに入れてもらえなかった人が命拾いをしたという話をたくさん聞いております。

 幸い私は、我が家が空襲を受けて丸焼けになる10日前に父だけを残して母、姉と3人、遠縁を頼って疎開しておりましたので、火炎に追われて逃げ惑う恐怖は経験しておりませんが、今、リアルタイムでウクライナの方々の戦火に追われる様子を見ておりますと、他人事とは思えない恐怖感に襲われます。(加賀便り27「赤い夜空」にも東京大空襲のことに少し触れております)

 1952年のフランス映画「禁じられた遊び」の冒頭、第2次世界大戦中の市街戦で逃げ惑う人々が低空飛行する敵機からの機銃掃射を背中に受けてバタバタと倒れていく様子が映し出されます。この攻撃のやり方を絨毯爆撃というそうです。主に都市部で行われる無差別爆撃で、絨毯を端から端まで敷き詰めるように、空中から機関銃を向けてなぎ倒してゆくのです。

 そのなぎ倒された母親の身体の下から5歳の女の子が無傷で這い出し、見知らぬ人に助け出されて「ミシェル」という名の少年の家族と共に幾日かを過ごしながら些かの平安を得るのですが、程なくまた見知らぬ修道女に伴われて施設に引き取られていきます。その道すがら、「ミシェル」という誰かの呼び声が聞こえると5歳の女の子はその声を求めて、ほんの少しそばを離れた修道女とは違う方向へ、人ごみをかき分けながら行ってしまうラストシーン。あの救いようのない、悲しい名画を思い出します。

 なぜ5歳の女の子が、こんな悲惨な目に遭わなければならないのか。理由は簡単です。戦争の真っ最中だからです。ウクライナの避難する人々の中にも小さな子どもさんが大勢いました。大粒の涙を流している子、恐怖で固まってしまっている子、疲れてぐったりしている子......。

 この子たちの未来は、強力な核大国であることを、恐れげもなく宣言し、それを行使できる地位についていることを公言して憚らない一人の統率者の手に握られています。この現実をどのように受け止めればいいのか、私には判断がつきません。ただ一日も早く侵略が停止するよう祈るばかりです。

※本稿は3月初旬に執筆されたものです。

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(左)ウクライナは小麦が世界7位、大麦が世界5位の生産国だそうです
(この写真ウクライナではありませんが、このような広大な麦畑が広がっているそうです)。
(右)東京23区内の寺社に残る防空壕。
※写真はともに、フリー素材。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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