竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第27回 赤い夜空

 今年の冬は例年以上にインフルエンザが猛威を振るっているようです。世界的な異常気象が関係しているのかどうかわかりませんが、インフルエンザの症状のひとつとして「インフルエンザ脳症」や「異常行動」という言葉を度々耳にするのが気になりました。突然走り回ったり、あらぬことを口走ったり、時には高い所から飛び降りてしまう例もあるようです。一時、その原因は特効薬の副作用と言われておりましたが、それは間違いで、あくまでもインフルエンザの症状の一つであるとうかがっております。それにいたしましても怖いですね、インフルエンザウイルス。体中のいろんなところに入りこみ、取り付き蝕み酷い合併症に導き、命さえ奪う。実は私も7歳のお誕生日を迎える直前、このウイルスに取り付かれてインフルエンザ脳症を罹患したことがございます。昭和20年(1945)3月のことでした。

 突然40度を超える高熱を出して東大病院に入院したのですが、高熱にもかかわらず病室を走り回ったり、はしゃぐような素振りを見せたりしたうえにカーテンの隙間を覗いて「まあ、きれい、道成寺よ!」と口走ったそうです。その様子を見た母は再起不能の重病に違いないと思い、絶望的な気持ちになったと、のちに告白いたしました。

 私が口走った「道成寺」というのは歌舞伎舞踊の「京鹿子娘道成寺」のことで、芝居好きの両親に連れられて物心ついた頃から歌舞伎を見慣れていた私は、数か月前にこの舞台を観ていたのです。演者は唯一九代目市川團十郎の血筋を引く孫であり、舞踊家であると同時に女優としても活躍していた市川紅梅(後の翠扇)でした。場所は浜町の明治座であったと思います。

 ご承知のように「京鹿子娘道成寺」の舞台面は大変華やかで、紅白の幔幕が揚がると満開の桜を背景に緑色の大きな釣り鐘の作り物が下がっていて、そこには赤い毛氈を敷いた山台に二十数人の長唄、囃子連中がならび、舞台の上手下手には大勢の所化が控えるなかに、豪華な赤い衣裳に身を包んだ白拍子花子が立っているのです。そして何度も衣裳を変えながら女方芸の真髄を見せるのですが、女とはいえさすがに團十郎直系の市川紅梅、その踊りには歌舞伎俳優からも一目置かれる存在でありました。

 このときの舞台を、たぶん私は喜んで観ていたのでしょう。そして、とても不思議なのですが、高熱に喘いでいたはずの私は、前後の経緯はまったく覚えていないにもかかわらず、病院内のどこかのカーテンの隙間から、道成寺の華やかな舞台を垣間見たことをはっきり覚えているのです。幸いなことに私の高熱は入院一日で下がり、翌日の朝、目が覚めたとき、ベッドの足もとの辺りに立っていた母が、当時、私が好きだった木葉形のクッキーを示して「食べる?」と言ったこともよく覚えています。それから2、3日後、それまで一人きりだった病室に私より1、2歳下の女の子が入院して来たことや、そのお名前まで今でも思い出すことができます。この経緯について、つい先日、ある方から貴重なコメントを頂きました。「時期的、場所的にみて、あなたは東京大空襲を直接ではないまでも経験しているのではありませんか?」と。

 おっしゃる通りです。昭和20年3月10日。東京は米軍機B29から降り注ぐように落下してくる焼夷弾と、超低空からの機銃掃射を受けて火の海と化し、たった一晩で10万人の死者を出す惨劇に襲われていたのです。この日、私の家はその惨劇を逃れることができましたが、深夜、近くを飛び交うB29の不気味なうなり声や、暗いはずの夜空が深紅に染まっている光景を全身で受け止めてしまったのでしょう、七十数年たった今でもふと、思い出すことがあります。

 さらにこの夜、家を失い、炎の中を命からがら逃げ延びてきた親類が、無事だった私の家に三々五々避難してきました。4人家族の私の家が一時、二十数人の大家族になったほどです。そして私の発病はその直後でした。コメントをお寄せくださった方は、私の幻覚が「赤」を基調にしているのは、赤く焼けた夜空を見たショックが原因ではないかということでしたが、思い当たります。同じような症状の患者がその後かなり出たようですし、重篤な合併症を心配していたのに病院から提示された病名がただの「流行性感冒」であったことに不審を感じていた母は、「怖い怖い病みたいなもの」と大空襲の影響を認めておりました。

 幼い時から歌舞伎を観ていた私のことですから、高熱に浮かされて道成寺の幻覚を見たのであろうと余人も思い、私自身もそう信じ込んでおりましたが、偶々受けたコメントに今更ながら納得した次第です。と同時に、退位をご決意あそばした今上陛下の『平成の世に戦争がなかったことにほっとしている』とのご発言を、深い感銘と共に拝聴したことを申し添えます。

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「道成寺」の赤い衣裳

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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