竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第85回 文字化け時代

 新しい年と共に7回目の干支が巡ってまいりました。こんなに長生きするとは思っておりませんでしたので、改めて過ごしてきた時間を考えますと、一体何処で、何をしていたのだろうと、取り留めもなく生きてきた自分自身の在り方に啞然としてしまいます。でも同時に、これから一体いつまで、何処で、どういう状態で生きていくのだろうという不安に絶えず襲われていることも事実です。

 いろいろなことがあったようでなかった八十有余年。長いようで短い時間でした。良かったり悪かったり、不幸だったり幸せだったり、その都度、感じる思いはコロコロ変わりますが、でも一括りにしてみますと結構面白くて楽しくて、いい来し方であったような気がいたします。

 突然こんなことを言いたくなりましたのは、子どもの頃から見慣れておりました歌舞伎専門誌『演劇界』が2022年4月号をもって休刊することになったからです。前身の『演芸画報』時代から数えれば115年の歴史を持つ月刊誌でした。出版社の名前もズバリ演劇出版社。戦時中も戦後も日本の文化を、日本人の誇りを死守する意気込みで演劇愛好家、歌舞伎好きが全力で取り組んできた雑誌でした。そして不肖私、物書きとして名を連ねるようになりましてからは読者としてだけでなく折々に寄稿もし、「ことばの華――心に届くセリフ」と題したコーナーで、耳から入って来た忘れられないセリフの数々を、コレクションのブロマイドと共に8年間も連載させて頂いておりました。

 長い間には、世の中の変動と共に出版社内部も変わらざるを得ない状況に陥ることもありましょう。でも関係者の皆さんは日本の文化の継承を担う責任を感じ、その気概を持ち続けて、何回も危機を乗り越えていらっしゃいました。しかしながら今回の危機には、新型コロナという、世界中にその影響をおよぼしたまったく予期できなかった災厄が付加されてしまいました。私の担当をしてくださっていたOさんは「力不足でした」と謝罪していますが、出版社だけの責任ではありませんよね。

 Oさんは心の底から歌舞伎を愛し、歌舞伎界に従事するすべての人に敬意を持って、編集者としての任務を遂行していました。彼女の今の心境を思いますと、こちらまで胸が痛くなります。

 新型コロナの影響は、もちろん『演劇界』に限ったことではありません。同じ日の新聞には、多目的ホールとして開館し、のちに単館映画上演館としての基礎を創った「岩波ホール」が本年7月29日(金)をもって閉館するという報道もありました。あまり人に知られていない国の極めて上質な名画を上映して、私たちの目を見開かせてくれていた、あの神保町の「岩波ホール」です。閉館の理由は「新型コロナの影響による急激な経営環境の変化を受け、劇場の運営が困難と判断」したからだそうです。

 神保町には、私のこれまでの人生を通して本当にお世話になりました。太平洋戦争中、東京の中心地の多くが空襲による焼夷弾で焼け野原になっておりまして、私が住んでおりました神楽坂も家はポツン、ポツン。その周辺には疎開先から戻ってきた住人が見様見真似で作った畑にキュウリやナスが植えられていました。本屋さんも映画館もなかったのです。

 ところが、なぜか神保町の一角は焼け止まりといった態で建物が残っておりました。70年余り経った今でも当時のままの店構えで営業を続けている本屋さんもあります。三省堂や東京堂も敗戦直後から営業しておりましたし、映画館も、女の子が欲しがるような雑貨を置いている「ひまわり」というお店もありました。画家の中原淳一氏プロデュースのお店です。ですから最寄りの飯田橋から都電で二つ三つ先の停留所である神保町までよく買い物に出かけました。

 父に連れられて映画館にも行きました。例えば名子役マーガレット・オブライエンが出演している「若草物語」とか。子役が主役の「子鹿物語」、ディズニーの「ピノキオ」、それからイングリット・バーグマンの「ジャンヌ・ダーク」も。

 その神保町に存在する、映画界の良心ともいうべき「岩波ホール」が閉館してしまうとは。まことに残念でなりませんが、まだ続きます。

 このサイトのいわば大家さんともいうべき「新潮講座」も一部を除き、3月末をもって休止するそうです。原因はやはり急激な環境の変化でしょう。けれども、ウェブ配信は継続のようなので、「ヨム、カク、ミル、シル」をぜひご覧になってください。右端に「加賀便り 新しき身辺整理」の文字も秋の落ち葉と共につつましく控えておりますので、どうぞよろしく。

 周囲の景色が一変してしまうほどの天変地異が起こったわけでもなく、国土や国民が変わってしまうような政変が起きたわけでもありませんが、日常がどこか奇妙に歪んできたようなこの2年間。なんとなく今、使っているパソコンの画面が突然文字化けしてしまったようなちょっと不気味な感覚に陥っております。

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長年お世話になった「演劇界」。お疲れさまでした。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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