竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第91回 瀬戸際の手習い

 年末年始もゴールデンウイークも夏休みも、まったく縁のない暮らしを40年ばかり続けてまいりましたが、一年で一番爽やかなこの時期に突然、一念発起して大学の公開講座を受講することにいたしました。

 とは言え老骨の身、もちろん制約がございます。しかし世の中は千変万化。禍も福に転じることがあるという事実を目の当たりにすることができました。オンライン講座です。自宅でパソコンに向かいさえすれば好きな科目の好きな講義が履修できるなんて、願ってもない仕合せではありませんか。でもこの仕合せ、よくよく考えてみますと2年たっても立ち去る気配がないどころか、ますます眷属けんぞくを増やして蔓延はびこっている新型コロナウイルスがもたらした現象なのですね。最近はだいぶ緩和されてまいりましたけれど初期の頃は幼稚園から大学まで、ほとんどの学校が閉鎖されて教室での授業ができなくなりましたし、企業でも他人との接触を遮断する手段としてパソコンを介すようになりましたので、いわゆるテレワークなるものが一気に普及いたしました。他人との交流から得るものを度外視すれば、これはこれで便利で合理的な執務であり、学習形態であろうと思います。公開講座のオンライン化なども学内での必要性が枝葉を伸ばした結果生まれたものでしょう。とすると、新型コロナウイルスは悪い影響だけでなく、社会生活の一部によい変化をもたらしたとも言えるのではないでしょうか。

 もちろん、重い症状が出て苦しんでいらっしゃる方、亡くなった方も大勢おいでです。そして現に、罹患していない私共にいたしましても、もう2年以上も感染を恐れながら自らの行動を自ら監視し、他人様を巻きこまないように二六時中気を配り続ける日々を送っているわけですから軽はずみなことは申せませんが、少なくとも人々の日常の暮らしが「感染」を抜きには通用しなくなったことは確かであろうと存じます。

 約1,500年前、日本がまだ正式に国家として当時の交際社会に認知されていない頃、大陸から伝わってきた仏教は、豊富な知識をもたらすと同時に疫病も一緒に運んできました。そのために仏教は禍をもたらす邪教であるという意識が一部に生まれ、日本史上唯一の宗教戦争と言われる蘇我氏と物部氏の争い「丁未ていびの乱」が起こるに至りますが、仏教も疫病も日本と日本人のその後の在り方に大きな影響を及ぼしたことはご承知の通りです。

 それにいたしましても日常生活が今までと変化せざるを得なくなってから顕著に増えてきたのが高齢者の認知症、そしてそれ以外の年齢層にもはびこりつつあるノイローゼです。加えて自死のニュースも頻繁に耳にいたします。すべてが新型コロナウイルスの影響ではないでしょうが、毎日繰り返される平凡な生活に突然これまで経験しなかった生活の仕様が紛れ込んできた戸惑いが、人間の神経を揺さぶっているのは事実でありましょう。

 だからと言って現代の人間がやすやすとウイルスごときに組み敷かれてばかりはいられません。原始時代から人類はウイルスと戦い、その都度乗り越えて今日に至る文明社会を築き上げてきたのです。現代人だって乗り越えなければ先人たちへの礼を欠くことになりましょう。その道を一筋つけてくれたのがテレワークの普及ではないかと思っております。


 今回、私が参加した公開講座は京都芸術大学から配信されているもので、講座名は【少しだけ深く読み解く「詩劇としての能」01―『井筒』のすべて―】です。

 講師を担当なさる天野文雄先生は大阪大学名誉教授であり、現在は京都芸術大学舞台芸術研究センター特別教授をお務めでいらっしゃいます。つとにご承知の方も多いと存じますが、ご高名はかねがね伺っておりましたものの私が先生に直接お目にかかりましたのは、ほんの10年ほど前のことで復曲能「敷地物狂」が所縁の地、加賀市敷地での里帰り公演の実現に向けて企画された時期でした。天野先生は復曲能に深くかかわっていらっしゃったのです。私はまだ東京在住でしたが、ご縁があって少しこの企画にかかわることになり、復曲の当事者であり、演者でもいられる観世流シテ方の大槻文蔵先生や天野先生と行動を共にすることが度々ございました。そしてこの里帰り公演は大成功をおさめ、私自身、少なからず能楽への興味を深くいたしましたと同時に、終の棲家を当地に定めるきっかけにもなったのです。

 大体私は能楽について本格的に勉強しておりません。私の能楽への知識はすべて自己流の解釈によって成り立っております。ですから、この公開講座のお知らせを発見いたしました時は即座に受講を決めました。しかも講師は、ひそかに師と仰いでいる天野先生。張り切らざるを得ないではありませんか。

 かくして人生の瀬戸際に立ちながら、受講生の平均年齢を大幅に引き上げる結果となったわけでございます。

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瀬戸際の手習いで『井筒』を勉強しております。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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