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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第46回 煩悩あります

 令和と元号が改まりまして初めての新年。「四海波静かにて国も治まる時津風」と謡いたいところですが、日本列島は天災人災の繰り返しで問題山積のうえ、政府は臭いものには蓋をし、蓋をしそこなったものは先送りして有耶無耶のうちに忘却の彼方に飛ばしてしまおうとする。あまつさえアメリカはイランと一触即発の気配ですし、税関はまんまと被告人を海外へ逃亡させてしまう体たらく。啞然としているところへ、巷では大晦日恒例の除夜の鐘がうるさいという苦情が出て寺院側も対応しきれず、長年の慣習を取りやめた地域もあったという話。啞然に次ぐ啞然で、つくづく地球は病んでいると思った松の内でした。

 ところで除夜の鐘って本当にうるさいですか? 寝たきりの老人が怒りだす、赤ちゃんが泣きだすからダメとおっしゃいますが、老人は怒るのが常、赤ちゃんは泣くのが仕事。第一、皆様そんなに静寂な、無音の日常をお過ごしなのでしょうか。これが出船の銅鑼の音とか、緊急事態を知らせる半鐘を打ち鳴らす音とか、響銅製の打楽器鐃鈸(にょうばつ)を耳元で鳴らされたとかいうことでしたら、さもありなんとご同意申し上げまいものでもございませんけれど、鐘楼のすぐ傍で聞いても、梵鐘の音は重量感のある落ち着いた響きで、決して耳を塞ぐような騒音ではないと思うのですが、お人によっては我慢のならない大騒音に聞こえるのでしょうか。因みに鐃鈸は洋楽器シンバルの元になっている東洋の楽器で、仏教では宗派によって読経の際によく使用されております。

 十年ほど前の初夏、パリの友人が日本を訪れたときのことです。もう一人の友人と三人連れだって京都の老舗旅館に泊まる計画を立てました。近頃はほとんどホテルに宿泊いたしますので、久しぶりに日本式の情緒溢れる旅館に泊まりたくなったのです。条件は朝目覚めたとき、枕辺に梵鐘の響きが届く場所。私たちにとりましてはかなり贅沢なお宿でしたが、お掃除の行き届いた檜のお風呂に入り、昔ながらの夜具でゆったりと就寝し、東側の障子が白く際立って見えるころに目を覚ますと、本当に鐘の音が厳かに、でも穏やかに優しく柔らかく響いて来たのです。心がシーンと鎮まり、清浄な空気が体の中をスーッと通り抜けて行くような気がいたしました。たぶん、煩悩が消えていったのでしょう。ご承知と存じますが、煩悩とは「衆生の心身をわずらわし悩ませる一切の妄念」と広辞苑にはあります。

 京風の朝食を堪能した後、庭下駄をはいて庭伝いに行きますと、除夜の鐘のテレビ中継でお馴染みの知恩院の鐘楼の前に出ます。先ほどの鐘の音はこんなに近い所から流れていたのです。この音色が聞くに堪えないうるささだなんて、不思議です。

 でも、この報道を受けてネットには面白いコメントがいくつか見受けられました。「うるさいと言っているのは、本人ではなくて、その人が抱えている煩悩なのだろう。鐘の音で消されてしまうから」という意味のものがほとんど。皆さん洒落ていますね。除夜の鐘を心穏やかに聞いて、煩悩が消滅した方々の投稿なのでしょうね。なにより近頃はやりの"炎上"でないところが救いです。

 ところで大晦日には、神社のお膝元にある私の庵にも近くのお寺の鐘の音が流れてまいります。一年が終わるのだな、新しい年が来るのだな、と、普段は気にも留めていない時の移ろいを改めて感じる瞬間です。一年に一度くらい、こういう非日常の時間があってもいいように思いますが、小学校の運動会の応援の声がうるさいという苦情もしきりに寄せられる世の中ですから、やるせないですね。小学校の運動会がシーンとしていたら気味が悪いのではありませんか?

 さて正月飾りは、東京では昔ながらにご近所の鳶頭が手配してくれますが、加賀では神社に所縁のある方々、いわば当地の旦那衆が稲を刈り、それを乾燥させて藁にするところから一つずつ手造りで注連縄(しめなわ)や玉飾りを造って分けてくださいます。昨年来、私は特別に玄関の玉飾りを従来の縦長ではなく、リースのように注連縄の部分を輪にした自分好みの正月飾りを造っていただいております。これが案外好評で、注文が一人増え、二人増え、もしかすると来年はもっと多くのお家の軒先がリース風正月飾りに変わるかもしれません。もっとも、東京も同じことですが、近頃は藁で造った注連飾りではなく、布や紙やプラスティック製の手芸風正月飾りがデパートやスーパーでも売っておりますし、藁を確保することもなかなか手数のかかることのようなので、この素朴な風習がいつまで続くか、心許ないというのが現状でございます。

 なにがさて、令和二年が始まりました。何方さまも煩悩だけは健在のはず。一年後に除夜の鐘を聞いてさっぱりとした気分になれるよう毎日を大切に、前に向かって進んで行こうではありませんか。

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(左)はリース風の玉飾り。(右)その原材料の稲。屋根のついた風通しのいい場所で一か月くらい干します。

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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