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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第89回 北陸にも春が来ました

〽雁と燕はどちらが可愛 ややを育てる燕が可愛。花を見捨つる雁金ならば 文の便りも又の縁。エエそふじゃいな エエそふじゃいな。

 歌舞伎や文楽でお馴染みの『義経千本桜』の一場面で唄われる浄瑠璃の一節です。源氏と平家の争いが終結した後、この合戦に大きく貢献した源義経が、鎌倉殿・兄の源頼朝の怒りをかって放浪の旅を続ける途中、義経の後を追う愛人の静御前が義経の家来、佐藤忠信を供に奈良の吉野山近くにさしかかったときの情景を描いたもので、全五段からなる長い通し狂言の中で唯一、舞踊仕立ての華やかな一幕になっております。

 丁度、冬を過ごした雁が北の国へ去り、入れ替わりに南の国から燕がやって来るころ。近くの草むらから〽ほろろけんけん ほろろうつ。とキジの鳴き声やパッと飛び立つ羽音が聞こえてまいります。慣れぬ山道を歩きながら静御前は、子育て中らしいキジに向かって心の中で応えます。

「あなたは、巣にいる子どもを思って鳴くのね。私は恋路に迷って山の中を彷徨っています。あなたは家も家族もあっていいわね、羨ましいわ、妬ましいわ」

 心細い思いはそれだけでなく、義経の信頼厚く、静御前にとっても安心できるはずの存在であるお供の佐藤忠信の様子が奇妙なのです。付かず離れず主従の礼を守りつつ警護に務めていてくれるのですが、突然姿が見えなくなったり、ひょいと、あらぬ所から姿を現わしたり、ということが度々あるのです。静御前が薄気味悪く思うのも無理はありません。

 実は、この佐藤忠信、狐が化けているそっくりさんなのです。で、この忠信を本物の忠信と区別して「狐忠信」と呼んでいます。これにはいろいろ深い事情があるのですが、その経緯はまた別の機会に譲ると致しまして、なぜ、この一件を冒頭に持ってきたかと申しますと、原因は桜の花でございます。

 3月の末、久しぶりに東京に行ってまいりました。

 加賀へ転居いたしましてからも月に2、3回往復することがあった東京ですが、コロナ禍発生以来、東京はおろか市外に出ることも稀になっておりました。でもコロナ、コロナで明け暮れて2年も経ちますと、老人といえども止むを得ない用事ができてまいります。そこで行動範囲を極力狭め、移動には公共交通機関を利用せず、マスクの着用はもちろんのこと抗体検査キットを携帯するなど、感染対策に留意して東京に3日滞在いたしました。

 その間、桜の開花がはじまっており、七分咲きから満開になる絶好のお花見をしながら帰宅することができましたが、同じころ、北陸の桜はまだつぼみが目立っておりました。

 北陸は寒いのだから当たり前とお思いになるかもしれませんが、私が現在住んでおります大聖寺地区は、なぜか県庁所在地の金沢よりも冬場の気温が1度くらい高く、同じ加賀市内でも少し標高の高い地域のようには雪が降らず、東京とほとんど変わらない気温をキープしております。ですから当然、満開とはいかないまでも半分くらいは咲いているだろうと思っておりましたのに、大聖寺川の両岸に根を張っている桜の木々は、人間のように場当たり的な生き方をせず、しっかり北陸の気候に適合した育ち方をしておりました。

 その代わり、静御前が吉野山で経験したような自然界との触れ合いをすることがあります。以前、4月半ばごろだったでしょうか、続けて2度キジに出会いました。

 1度は木の繁みから突然キジが飛び出してきて、目の前を横切って行ったとき。次は人気のない丘で、1羽のキジがしきりに草の根の辺りをつついている所に行き合わせたとき。私は3メートルほど離れた所で20分く近く、じっと見ておりましたが、キジは気がつかないようでした。

 それから朝の散歩中、子狐に出会ったこともございますし(第55回「ちょっと進化論」)、冬の終わりに雁が「鍵」になったり「竿」になったり隊列を組みかえながら飛んでゆく様子を見上げたり、田植えがすんだばかりの田んぼの畦道で真っ正面から体当たりして来そうな燕に出くわしたりすることも。

 中でもひばりの鳴き声には驚かされました。

「おおひばり 高くまた かろく何をか歌う」とメンデルスゾーンの歌曲でお馴染みですし、鶯と並んで美声の代表のように言われている鳥ですのに、初めて聞いたときはその鳴き方の姦しさ、忙しなさにひばりとは信じられない気持ちにさえなったくらいです。

 鶯も都会で聞く鳴き声とは様子が違います。こちらの鶯は、美声ではありますけれど、力強くて逞しいのです。まあ、仕方がありませんね。みんな子孫を残すという大事業に邁進する真っ最中なわけですから。桜が散って、緑の葉でいっぱいになる並木道を散歩しているときなど鶯の鋭い鳴き声が頭上を過ります。テリトリーに入るな!という意思表示でしょう。

 そんな自然の息吹を身近に感じる春の北陸で、このほど84回目のお誕生日を迎えました。

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(左)染井吉野=江戸生まれの桜、(中)吉野桜=山桜です(ともにフリー素材写真)
(右)近くの「月兎の里」に行ってまいりました。40羽の兎が放し飼いにされています。
   お天気もよく、桜は満開。ランチのお店も小ぎれいでなかなかの穴場です(写真:巻下)。

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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