竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第55回 ちょっと進化論

 どうやらコロナは居座り続けるようですね。2020年は世界中の人類の日常生活が一変する歴史的な年になりそうです。

年表には「令和2(2020)年 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)発生」と必ず明記されましょう。そして社会は確実に様変わりし、経済も食生活も人の交流もこれまでとは違う形で展開する世の中になるでしょう。この年齢になってこんな現状に遭遇するとは夢にも思いませんでした。

 夢にも思いませんでしたけれど確実に今、人類は新型コロナウイルスと対決せざるを得ない状況に立たされております。対決せざるを得ない状況ではありますが、なにしろ相手とは対等の立場にありませんので、どう向き合い、どう対処し、どう処理すればいいのか分からない。分からないから先の見通しも立たない。つまり宙ぶらりん。そんな状態のまま外出を制限される状況になって早くも3か月が経ちました。私、加賀へ移り住んで2年7か月ですが、3か月も県外へ出なかったのは初めてでございます。

 少なくとも東京とは月に1回、時には3回往復したこともございますし、京都、大阪、名古屋にも度々出向いておりました。でも、人と接触しないのがコロナから身を守る第一の条件ということですから、ウイルスをうつされずうつさず、を実行するためには、移動距離と出会う人の数の最小限化を自分自身に課すよりほかに手段がございません。で、それを心がけておりますが、有り難いことに、折しも青葉の季節。1年で一番爽やかで清々しい、朝の散歩には絶好の季節でございます。外に出ますと頭の上から鶯の声が降ってまいります。普段は神社の裏山の森の辺りから聴こえてくるのですが、5月も半ばを過ぎましたらその声は家の近くの川沿いの桜並木に移り、しかも私の歩く速度に合わせるようにずっと後からついてくるのです。 

 見上げれば幾重にも重なって茂る桜の青葉。どうやら、この青葉蔭を別荘にしているらしい。子育ても一段落(いちだんらく)したのでしょうか、彼らはとてもリラックスしているように思えます。ついでに私もリラックスして、つけていたマスクをはずしました。辺りに人気はなし、青葉は思いきり新鮮な酸素を提供してくれています。いくら自分自身の呼吸とはいえ、人間が吐き出す息に塗れたマスクの内側より緑滴る外気のほうがずっと清潔に違いありませんもの。

 そこから藤色の花を空に向けて咲かせている桐の木の傍らを通り、5分ほど行った所に小さな森があります。去年の今頃、一羽の雉が私の目の前を素早く横切って茂みの中に姿を消した場所です。この日もなんとなく気配を感じて立ち止まりましたら、目の前に狐がいました。たぶん子狐です。絵本や写真や、子どもの頃に行った動物園で見た程度の記憶では、おとなの狐はもう少し大きかったように思いますので。

 彼は(たぶん)キョトンとした顔つきで私を認めると少し後ずさりしましたが、私が「おはよう」と言いながら会釈しましたら、その場に立ち止まってくれました。ソーシャルディスタンスの3倍くらいの距離だったと思います。私は話しかけながらスマホでそっと写真を撮りましたが、彼は逃げもせず、でもちょっときまり悪そうな、おずおずとした様子でじっとこちらを見ておりました。

 もっと彼と遊んでいたかったのですけれど、朝食前であったことを思い出して「またね」と手を振ってその場を離れました。老人にとって毎日の生活のリズムを保つことは健康で元気に死ぬための第一条件ですから。そして2~3歩歩いてから振り返りましたら彼はまだこちらを見ていました。なんですか、神様から、とびきり上等の贈り物を頂いたような気持ちになりました。

 ところで私、5月に入ってから謡(うたい)のお稽古を再開いたしました。70を過ぎてから始めた謡のお稽古ですが、人生の大転換のために3年ほどで一時休止。なんとか続けたいと願っておりましたところ、今回のコロナ禍がきっかけになってオンラインでのお稽古が可能になりました。それで元の先生に早速、再入門をお願いしたわけです。
月3回、昨日、その3回目のお稽古が済みました。先生が選んでくださった曲は「三輪」。古事記にも書かれている奈良の三輪山伝説を基にした、非常に清澄で、かつ奥床しい曲です。なにしろ神様がシテ(主役)ですから。でも、その中に人の感情が込められているのですね。とても難しくてなかなか覚えられないのですが、先生がご指摘くださることを素直に受けとめることを目標に毎回楽しく、うれしくオンライン稽古を続けております。こんなに幸せな時間が持てるなんて、コロナウイルスが到来したればこそ。人間は強かです。転んでもただでは起きません。

 5月25日に緊急事態宣言は解除されましたが、途端に感染者数が増えました。早速第2波到来のようです。こういうことを繰り返しながら人類は新しい習慣を習得して進化していくのでしょう。

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(左)オンライン稽古は、この「三輪」で。
(右)朝の散歩で出会った子狐。
   森のはずれの一部が庭石置き場になっていますが、
   人の出入りを見たことがありません。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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