竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第42回 足掛け3年まる2年

 加賀に移住してまる2年経ちました。来た時はぎりぎり70代でしたが、現在は82歳に向かって着々と歩を進めております。

 この年になりますと2年なんて数のうちに入りませんし、相も変わらぬ日々の連続なのですが、改めて当時の記録を繰ってみましたら ―こんなことがあったなァ―と早くも遠い昔のようにも思えて、ちょっと不思議な気がいたしました。と申しますのも移住につきましては、なにもかも驚くほど手順良く運んだのですが、独り身の私個人の引っ越しには7泊8日もの日数を要したのです。

 独り暮らしというものは、当たり前のことですけれどもなにもかも一人でやるということです。生涯に二度とないであろう所帯を仕舞うという行為も、誰にも頼らず一人で考え一人で行動いたします。日常ではほとんど気にかけたこともない大きな金額が書面や会話の中に登場しますし、家具調度、書庫にあふれる書籍の整理など嵩も重量も大きい荷物の処分もせねばならず、引っ越し先との連絡やら新幹線のチケットの手配やらもあります。人の出入りは激しく、考えたり動いたり、頭も体も休む間がないほど働きづめに働いているのです。

 それでもなんとか諸般の手筈がついて、私自身の引っ越しを考える段になったとき、引っ越しの荷物と同時に自分の体を運び出すのは、心身共にかなり大きな負担がかかるであろうことに気がつきました。先方に着いた途端にトラックから降ろされた荷物の整理もしなければならないわけですから、80の老女にはどう考えても無理。そこで私の身元引受人になってくださる方にお願いして休養期間を設けることにいたしました。有難いことに快く万事をお引き受けくださいましたので荷物は前もって契約しておいた仮越し先のアパートに収まり、本人は望み通りのスケジュールで行動することができたわけです。

 引っ越し当日は9月27日。早朝から引っ越し業者が来て手際よく事を運んでくれました。当日福島から来てくれた友人を含め、何人か手伝ってくれる予定でしたが、結局なにもすることがなく、ただおしゃべりをして時間を潰していました。そして無事にトラックが出発し、ご近所にご挨拶をした後ホテルに移動してお疲れ様会。次いで解散。いよいよ引っ越し旅の始まりとなったわけです。

 翌28日は、仲介のM不動産立ち会いの下、相手側の担当者と共に家屋の最終点検。翌日の引き渡しの打ち合わせをして解散。人生の大半を過ごした家を後にしてホテルへ戻りました。

 29日はいよいよ最終取引。都心の某銀行で相手の方とお目にかかり取引完了。生まれて初めての経験で多少緊張しておりましたが、仲介が大手の信用できる不動産会社であったことと、同級生のご子息であり、税理士でもあるK君に同行してもらったお陰でストレスを感じることもなく大仕事を終えることができました。まずはほっと一息。明日から本格的にスケジュールの実行にかかるぞ、と決意を新たにした一日でした。

 30日は千駄ヶ谷の国立能楽堂で金剛流の「楊貴妃」と狂言「宗八」にシテ観世銕之丞師、子方片山清愛さんの「烏帽子折」を拝見。華やかで豪快で、人の情愛にふれる舞台に私、人生の最期を彩る冒険の旅の門出を祝福された思いがしたことでございました。

 10月1日は開場20周年記念の新国立劇場オペラパレスでリヒャルト・ワーグナーの楽劇「ニーベルングの指環」第3日「神々の黄昏」を鑑賞。2015年10月の序夜「ラインの黄金」から第1日の「ワルキューレ」、第2日の「ジークフリート」と2年の歳月をかけての上演が遂に完結しました。これも私にとりましては記念すべき餞と感じております。心の底から感謝です。

 10月2日にホテルを引き払い、旅の荷物のほとんどを終着点の住所に送って歌舞伎座へ。尾上菊之助丈主導の新作歌舞伎「マハーバーラタ戦記」を観るためです。このために調整した苦心のスケジュールも最終段階に入りました。

 内容について細かいことを言い立てる隙を与えないほどスケールの大きな芝居でした。この冒険を成し遂げた菊之助丈の勇気と行動力に感嘆しつつ東京駅に向かって新幹線で名古屋へ移動。ANAクラウンプラザホテルに到着。

 10月3日は名古屋の顔見世へ。いつもの御園座が工事中なので日本特殊陶業市民会館なる、失礼ながらかなり無粋な名前のホールで昼夜見物。ここへは3年前にも菊之助丈初役の「伊勢音頭恋寝刃」の福岡貢と時蔵丈の万野を観るために来たことがあります。芝居はねて後、顔見世出演中のT君と「たん熊」で舌鼓。

 10月4日朝。名古屋を発って一路目的地へ。昼過ぎに加賀温泉駅到着。身元引受人にお迎えいただいて仮越し先のアパートに無事到着。すでに荷物は運びこまれていて2LDKの一室は段ボールで埋まっておりました。

 折しも十五夜。月光の差し込む寝室で加賀の第一夜を迎えた次第でございます。

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(左)2017年10月、新作歌舞伎「マハーバーラタ戦記」
(右)特急しらさぎ車内。友人お手製のペットボトルカバーが、私の一世一代の旅にずうっと同行してくれました。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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