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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第50回 ウイルスは国境を知らない

【読者のみなさまへ】

 本連載は、今回で第50回を迎えました。
 2017年10月30日にスタート以来、多くの方々にお読みいただいていることに、深く感謝申し上げます。
 竹田真砂子先生は、ますますお元気です。
 これからも、月2回程度の更新をめどに、加賀の日々や、世相のよしなしごとを綴っていただく予定です。
 ひきつづき、本連載をご愛読いただきたく、お願い申し上げます。

(新潮講座事務局)


「『ウイルスは国境を知らない』とパレスチナ当局者が言っている」(2020年3月6日、中日新聞、中日春秋)。世界中に蔓延しているコロナウイルスによる新型肺炎のために、多くの国で長年の習慣である挨拶に変化が起きているという内容の記事は、この言葉で締めくくられていました。「イスラエルとパレスチナ自治政府が肺炎対策で協力を始めた」のがその要因になっているようです。

 そうだとすれば、人間だけではなかなか解けない両国間の緊張関係を、国境を知らない上に日常的な挨拶にも無頓着なコロナウイルスが、あっさり解き放したことになります。どうかそうあって欲しいと願うばかりです。

 それにいたしましても宇宙に滞在中の人間と地球上から交信でき、数々の難病が最新の医療技術によって克服できるほど科学は著しい進歩を遂げていますのに、新しく誕生してしまったウイルスに対しては免疫がないばっかりに、ひたすらワクチンの完成を待ち、ウイルスの餌食になってしまった犠牲者を前にしても目をつぶることしかできなくなっている現状の歯がゆいこと。世界中が戦々恐々。入国を拒否したり、出国制限したり、つまらないデマに翻弄されたり、見境なく他人を罵倒したり傷つけたり、人心がどんどん荒んでまいります。中東では、現地の女性がコロナ、コロナ、と言って非政府組織(NGO)から派遣されている日本人女性をからかった末に襲ったという事件もありましたね。襲った女性は逮捕されたということですが、目に見えない強力な敵への不安や恐怖から、さらなる混乱が起きる火種は充分過ぎるほどそろっていると思えるのです。

 これらの情報を知るにつけ、かなり飛躍するようですが、『日本書紀』敏達天皇14年3月の条を思い出してしまいます。

「疫疾(えやみ)流(あまね)く行(おこ)りて、国の民(おおみたから)絶ゆべし」。5~6世紀ごろの日本は流行り病に悩まされ続けていたようで、この時は国民だけでなく前の天皇陛下がすでに、疫病のためにお亡くなりになっていましたし、今上陛下も闘病中であられたのです。こんな有様では国が滅びかねない。そう心配した重臣の一部が、折から伝来した仏教が疫病の原因に違いないと決めつけ、寺に押しかけて建物に火をつけたり、仏像を難波の堀に捨てたり、尼僧を捕らえたりという蛮行に出ました。

 ところがその直後、今上陛下だけでなく重臣の筆頭、物部守屋(もののべのもりや)までが発病する事態になり、今度は逆に、国中に病人たちの苦しみ喘ぐ声が満ちているのは仏像を焼いた罪に違いない、という判断が下されました。そして今上陛下おん自ら日嗣(ひつぎ)の皇子と重臣の一人である蘇我馬子にそっと、前の天皇の詔(みことのり)に従って仏教を大切にせよと仰せられたのです。

 仏教は大陸から渡来した新しい文明ですが、教えを伝える人間と共に新しい病原菌も運ばれてきたわけです。でも同時に、例えば疫疾の治療法なども伝えてくれますし、人間形成に必要な見聞を広める効果ももたらしてくれるわけで、次の時代への大きな飛躍が望めるはずです。若い日嗣の皇子や自身も疾病に苦しんでいた蘇我馬子は、そのような先を見る目が備わっていたのでしょう。とりあえず目の前の危機は脱することができました。けれども、まもなく今上陛下も薨去(こうきょ)遊ばし、疫病はその後もずっと国と人を悩ませ続け、その時の日嗣の皇子は31代用明天皇を継承なさった2年後にやはり疫病でお隠れになっております。

 続く不幸に用明天皇の皇子である聖徳太子は数々の疫病対策を試みています。残念ながらそれは、ひたすら神仏に祈願するといった、とても医術と呼べるようなものではありませんでしたが、患者の受け入れ先を準備し、周辺を清潔に保ち、食事を与えるなど、疫病に負けないための環境を整えていったようです。

 それでもウイルスは新しい媒介を見つけては発生し、発生しては人間の尽きることのない発想、発見、発明によって退治され、退治されてはまた、さらに強力な病原体となって再生する、といったことの繰り返しを続けて今日に至っております。

 クルーズ船内でコロナウイルスによる新型肺炎発生の情報が伝えられてから1か月余り。アメリカのジョンズ・ホプキンス大学、システム科学工学センターが開発したonline dashboard によりますと 3月14日13時33分現在、世界の感染者数は累計145,369人。死者は4,012人。快復した人数は63,625人。となっておりましたが、30分後には感染者数が2名増えておりました。

 ところで来年は疫病対策を政策の中心に置いた聖徳太子の没後1400年目にあたるそうです。今回のコロナウイルス騒動の中に身を置きながら、まだ医療も薬剤の処方も未完成だった時代と、世界はほとんど変わっていないことを改めて思い知らされ、襟を正す思いで毎日を過ごしております。

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聖徳太子廟(大阪市南河内郡太子町・磯長山叡福寺)
「三骨一廟」と呼ばれ、太子の母・間人大后、聖徳太子、妃・大郎女が埋葬されているそうです。
現在は宮内庁の管理で、大正時代に点検されてから一度も中は確認されていないとのことです。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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