竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第49回 みんなの認知症

 改めて考えてみました、認知症のこと。

 一言でいうと認知症とは、知能が後天的に低下した状態なのだそうですが、では、ボケと、どう違うの? と思いましたら、以前は同じ状態を痴呆症と呼んでいたそうです。ただ、痴呆という言葉を辞書でひきますと単に「愚かなこと」と出てくる場合がありまして、続けて認知症として「一度獲得された知能が後天的な大脳の器質的障害のため進行的に低下する状態」と書かれておりました。またWikipediaには「『知能』の他に『記憶』『見当識』を含む認知障害や『人格変化』などを伴った症候群として定義される」と記載されておりまして、痴呆と同列に扱うことはできないということになり、2004年に厚生労働省が名称を認知症に改めたという経緯があったようです。

 同じような症状にアルツハイマー病がありますが、これは記憶機能を司る海馬を中心に脳全体が萎縮する状態だそうで、日本人の認知症はこのアルツハイマー病によるものが多いとも聞いております。

 昔は、このような症状が出ると家族が恥じて、当人を一室に閉じ込めたりすることもあったようですが、老人になれば症状の差こそあれ、誰にでも訪れる脳の病気ですから家族が恥じる必要はないのではないでしょうか。とはいえ確かに、日常生活において当人のみならず家族全員に支障をおよぼすことがありますでしょうね。今はその範疇になくても、すべての人にとって明日は我が身であることを肝に銘じておく必要はあるかもしれません。

 中日新聞2019年12月25日の朝刊に認知症研究の第一人者である長谷川和夫氏の記事が出ておりました。長谷川氏は90歳。精神科医で「長谷川式簡易知能評価スケール」と呼ばれる認知症の診断基準を開発した方として知られております。「100から7を順番に引いてください」というあれです。全部で九つある項目で構成され、30点満点で20点以下ですと認知症の疑いがあるということになるようです。

 ところがこの長谷川氏ご自身に2017年頃から認知症の症状が現れ、いろいろな心理検査を始め、CTスキャンなどの詳細な検査をなさった結果、はっきり認知症と診断されたそうです。

 長谷川氏はおっしゃいます。「年を取ったら認知症になるのはしょうがない。人はみな、あるがままの存在が尊い」と。そして現在はご自分の経験を活かし、「認知症になっても安心して生きていけると知ってほしかった」と、講演活動を続けていらっしゃいます。

 ご多分に漏れず私も物忘れの常習者でございます。そのことに心を止めるようになりましたのは60を過ぎた頃だと思います。若い頃にしてもよく忘れ物をしておりましたけれど、格別その行為を気にすることはありませんでしたが、ある時期から確実に意識するようになりました。冷蔵庫を開けたまま何を出すのか分からなくなったり、用があって二階の居間に行ったのに、何の用で来たのか思い出せなかったり、人の名前が思い出せなかったり、そのほかにも、いろいろ、いろいろ。

 その頃からです、同年輩の気の置けない友人たちと集まると必ず各自の口から飛び出すボケ報告。昔見た映画の話をしても、出演俳優の名前が出ない、映画館の場所は分かっているのに地名が出ない。映画のタイトルも出てこない。「ほらほら、あの人よ。煙草に火をつけるときが、すごぉーくチャーミングな人。あの映画にも出ていたわよ~ほら、あの映画よ」などと、映画の名シーンが次々と浮かんできて、表情も声も鮮明に覚えているのに肝心の俳優の名前が出てこない。そして、これだけでは終わりません。4、5日たってスーパーで脂身の少ない豚肉を選んでいるときに突然、なぜかその名前を思い出して「あっ」と叫んでしまう。そんなことありませんか? 「あるある」とあちこちから声が聞こえてくるような気がいたします。

 さらに、ボケるだけではありません。体も利かなくなってまいります。私は昨年の秋、立ち居が不自由になったことに気がつきました。以前は正座からすっと立ち上がれましたのに、なぜか立ちかねて思わず手をついてから立ち上がっていたのです。ショックでした。歩く時のスピードも姿勢もあまり変わっておりませんのに、足のどこかの筋肉が弱ってきているのでしょうね。でも、これで弱気になりますと認知症に近づく速度も速まるに違いありません。そこで、長谷川氏のご助言を参考に、立ち居が不自由になったことを、大威張りで宣言することにしております。

 期せずして加賀市では、AI(人工知能)を活用する認知症ケアの向上のためのプロジェクトを始めることになりました。静岡大学ケア情報学研究所、一般社団法人「みんなの認知症情報学会」などの協力で、2017年度から毎年、国内外の研究者が最新の知見を交わす「認知症国際アジア会議」を開催することが発表されました。いよいよ高齢社会の到来が現実的で身近なものになってまいりました。

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夜明けの白山。【撮影/のね】

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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