竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第48回 流行り病(やまい)

 来年は聖徳太子没後1400年だそうです。この名前を聞いて、知らないという日本人はいないと思っておりましたら、近頃の若者は知らないそうでびっくり致しました。紙幣の肖像画に登場しなくなったからだそうです。

 確かに実在したかどうかも確認できないくらい古いことではありますが、日本で政治も法制度もまだ確立していなかった頃に、その制度を創り、行使し、極東の島国の存在を海外に知らしめるという大技も堂々とやってのけて、国としての在り様を示した人物がいたことは確かでしょう。もしかしたら聖徳太子なる人物は一人ではなく複数の人物を指していたかもしれません。ですから、あの肖像画はその時代の政治家のうちの誰かで、その名を仮に聖徳太子と呼ぶ、という存在でもいいのではないか、などと、私ごときは気軽に考えてしまいます。

 それはさておき、その聖徳太子は西暦622年(推古天皇30年)2月に数え年49歳で没しました(といわれております)。死因は疫病。一応疱瘡ということになっております。つまり現在は根絶したと言われる天然痘ですね。この頃は病名にしてもあれこれ区別するほどの知識はなかったでしょうから悪疫といえば疱瘡だったのでしょう。いずれにいたしましても伝染病ですから次々と罹患して、快復するすべもないまま次々と人が死んでいったのだと思います。

 聖徳太子の場合はまず前年12月に生母、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなり、翌年1月に発病した太子が2月22日に没しますが、その前日21日には妃、膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)も亡くなっているのです。さらに聖徳太子の実父である第31代、用明天皇も西暦587年、聖徳太子13歳の時に、やはり疫病でご逝去と伝えられております。この頃は医療と呼べるほどの知識も技術もなく、病気になれば自然治癒を待つか、死ぬかのどちらかしかなかったわけです。従いまして以前、加賀便り第37回 夏越の祓(なごしのはらえ)でも書きましたように病苦から逃れるためには、なにか見えない力、たとえば神仏に祈るしか方法がなかったのです。それが、神仏の力を頼りに災いの根源である「病」を封じ込める手立だったわけです。

「疫病よ、人間に近寄るな!」1400年の歴史を持つ神社の夏の大祭は、真菰で造った塚に猛威を振るう疫病を封じ込める神事を中心に執行されます。お神輿も山車も出ません。賑やかな祭囃子もありません。神事そのものが、いわゆる「祀り」(まつり)なのです。同じような祭りが冬にも行われます。毎年2月10日に行われる例大祭「御願神事」(ごんがんしんじ)がそれです。

 折からコロナウイルスによる新型肺炎の発生が伝えられてきました。発生はすぐに蔓延という情報に変わり、毎日その情報が飛び交っております。2月12日現在、ウイルスはほとんど全世界に拡散され、罹患者は4万人以上、死亡者は1000人を超えてしまったそうです。地球のあちこちで旅行者が足止めされ、住民でさえ必要に迫られた移動もできないようですし、日本でも大型客船の乗客が下船を許されないばかりか、他人との接触を極力避けつつ、船内で不自由な生活を余儀なくされています。感染者の隔離、移送など手を尽くしているようですが、それでも感染者は増えるばかり。医学の進歩は著しく、次々と新薬が開発されて、以前は罹患したが最後、死を覚悟しなければならなかった難病も治るようになりましたのに、ワクチンのない伝染病となりますと、結局、疫病を封じ込めようと神仏に祈った大昔のように、人の移動を制限してウイルスの拡散を防ぐことしかできないのですね。

 そのさ中、冬の大祭「御願神事」が雪混じりの雨と北風が容赦なく吹き付ける2月10日、執行されました。

 前回にも触れました白帷子の青年たちが手にした2メートル余りの青竹を振りかざして石にたたきつけ、悪疫を退散させるという神事です。その勢いは太い青竹が幾筋にも裂けるほどで、束の間、雲間から明るい日差しが洩れて、雪混じりの雨で濡れた若者たちをピンポイントで照らした効果もあり、今年は一段と参列者全員に疫病対策への実感が籠もっているように見受けられました。

 一日も早くコロナウイルスの拡散が収まってくれることを願うばかりですが、ワクチンが完成するのはまだ18か月も先とのこと。国境を封鎖する(出入国拒否?)というような情報もありますし、もっと物騒な状況に発展しないとも限らないなどと余計な心配までしてしまいます。なにしろ日本で唯一の宗教戦争といわれる西暦587年の丁未の乱(ていびのらん)の発端は、仏教伝来とほぼ同時期に疫病が蔓延したことだと言われておりますので。

 お陰様で今のところ加賀では感染者がいないようですが、薬局やスーパーからマスクはすべて消えました。

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(左)頑丈な竹ですが、石に叩きつけると先がこんなに細く裂けてしまいます。
(右)「御願神事」(ごんがんしんじ)。神社の境内で竹を割る若者たち。【写真提供:辰川志郎】

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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