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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第60回 青鷺(アオサギ)と羚羊(カモシカ)

 例えばピザ。マルゲリータとかペスカトーレとか、あのピザの、円形のトマトソースの池の周りを囲んでいる淵の部分。あんなような形を何千倍にも大きくした地形を思い浮かべてください。そこに民家が建ち並び、神社のこんもりした森があり、木造の教会の屋根の上には白い十字架が立ち、さらにその向こうには北陸の山々が連なってうかんでいます。そしてその遠景に囲まれたところは、一面ひろーい田んぼです。8月も半ばを過ぎて、ひろーい田んぼは黄金色に変わりつつあります。その真っただ中を巨大なコンクリートの柱が縦断しています。金沢から敦賀を結ぶ北陸新幹線の延長工事です。

 全長114㎞、 そのうちの33%にあたる38.4㎞ がトンネルです。ですから広々とした田園風景が車窓から一望できるこの区間はとても貴重だと思います。実は私、大好きな場所でして、散歩に出ますと家からかなりの距離になりますけれども足を延ばして、田んぼの様子を見に行きます。早苗が育ってゆく過程。そして、どんどん背が伸びて穂が出て、やがて頭を下げる実りの季節を迎える移り変わりを、豊かな実りの源である、遥か彼方の白山の雄姿と共に思う存分楽しむのが今の私の日課です。せめてこの眺めだけでも新幹線の乗客に見て頂けたら、人間の都合で分断されてしまった自然への言い訳になるような気がしておりますけれども、新幹線の架橋の両側には騒音防止の壁がつけられてしまうことが多く、残念ながらここも、乗客の目の慰安のお役には立たないことになりそうです。

 過日、朝の散歩をしている折、この新幹線工事の現場近くを通りかかりますと、防壁の上に何やら異物が見えました。鳥です。時刻は6時少し前。現場周辺には首長竜のような形をした重機やコーンが置いたままになっておりますけれども、まだ始業前で人気(ひとけ)はまったくありません。

 鳥はアオサギで(妙な表現ですが)背筋をピンと伸ばして、まっすぐ前を向いて、微動もせずに立っておりました。向いているのは朝日が昇る方角です。8月も半ばを過ぎて日の出がかなり遅くなりましたし、湿気の多い猛暑が続いていたのでお日様も雲間をかき分けるように昇ってまいりましたが、全容を現わすとたちまち新鮮な光を放って、ひろーい田んぼを祝福いたします。アオサギはその一部始終を、敬意をもって見守っているようでした。その姿の美しいこと。凜然としていて崇高にさえ見えました。

 しかも、その様子は1回だけでなく同じ場所で2、3回見かけたのです。当然、写真に収めようと思いました。でも、なぜか私は気後れがして写真に残すことができませんでした。もちろんアオサギがなぜ、この場所でじっと遠くを見つめていたのか、真意のほどはわかりません。でもアオサギとお日様と田んぼの間には人間ごときが立ち入ることのできない自然界の礼節のようなものが存在していて、命懸けで職務を果たすプロのカメラマンならともかく、行きずりの素人が偶々(たまたま)持ち合わせていたスマホで気軽に下手な写真を撮るような真似は、非常に無礼なことではないのかという気がしてしまったのです。

 そういえば以前にも、自然界で生きる動物たちの在り様を目の当たりにしながら、絶好のチャンスを無駄にしてしまったことがありました。今年の2月半ばのことです。山の生物に詳しいS氏が私を山菜採りに誘ってくださいましたので四輪駆動に同乗して連れて行っていただきました。山菜にはまだ少し時期が早かったのですが、暖冬だったせいで一か月近くも早くフキノトウの時期になったのだそうです。それほど高い山ではありませんし道も悪くなく、鳥の声に聞き惚れながらフキノトウ採りに精を出しておりました。すると、とある場所で「ここだ、ここだ」といいながらS氏が崖際を指さしました。指さした先にあったのはカモシカの白骨死体でした。昨日、発見なさったそうです。

 一番に私の目が確認したのは立派な大腿骨でした。そこから左足がすっきりと伸びており、右足は折れて少し離れた所に横たわっていました。前足、胸の部分もそろっています。それから大腿骨に比べるとかなり小振りな頭が、目や鼻の在りかがはっきりわかる形で転がっていました。おそらく熊に襲われたのだろうというのがS氏の見解でしたが、こうなるまでには多くの獣や鳥が入れ代わり立ち代わり群がって凄惨な弱肉強食の常識が展開されていたことでしょう。けれども周囲には血一滴の痕跡もありません。清々しいくらい見事な白骨でした。

 この時も写真は撮れませんでした。野生のカモシカは鮮やかに、立派に、自然界のまっとうな存続に貢献して一生を終えたのです。そして捕食者たちは、提供された糧を骨の髄まで平らげて、その貢献に報いました。自然界の見事なマナーを目前にして、私の軽薄な感動など尻尾を巻いて逃げ去るしかありませんでした。

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(左)近くの大聖寺川で時々見かけるアオサギです。
ふつうあまり動かないものですが、このアオサギはひどくリラックスしていて、
羽繕いをしたり、頭上の羽を冠のように広げたりしていました。
(右)田んぼを縦断する新幹線の架橋です。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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