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竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第96回 焼け跡のはなし

 1945(昭和20)年8月、第二次世界大戦は終戦を迎え、日本は敗戦国となりました。最近はテレビでウクライナの現状がよく映し出されますので、爆撃を受けた市街地の様子をご覧になることがおありかと存じますが、当時の日本の場合はほとんどが木造家屋でしたので瓦礫がごろごろしていたり、石造りの外壁の一部が、そこだけ立てかけたように残っているといった光景ではなくて、ほとんどが一面焼き尽くされたただの荒野になっておりました。

 私の家は現在の新宿区、昭和20年当時は牛込区といった地域で、皇居の外濠沿いに位置する所にありましたが、敗戦からわずか2か月後の10月、母に連れられて疎開先の伊豆修善寺から、仕事の関係で東京に残っていた父を訪ねて上京した時、最初に目にした光景を忘れることができません。

 最寄り駅を出てこちらと思う方角に目を向けても、かつて自分の家が建っていた場所がどの辺であったか見当もつかないほど、目印になるものもない焼け野原だったのです。そんな所へなぜ満員の汽車に乗って出向いたのかと申しますと、私の母は昔風に申せば家付きの娘で、父は婿養子でした。母にしてみれば子どもの頃から暮らしていた家が戦争に巻き込まれて、どうなってしまったのか、少しでも早く自分の目で確かめたかったのでしょう。そして出来ることなら1日も早く、慣れない土地での間借り暮らしから脱出したかったのだと思います。

 母と7つ年上の姉と私の3人が頼ったお宅はかなり大きなお家で、初めのうちは母屋から庭続きの離れをお借りしておりました。部屋は二間。庭に面した部屋には濡れ縁があり、小さいながら水屋もお手洗いもついていました。ところが1か月くらい経った頃だったでしょうか、ほかにも疎開先を求めている方が増えてきたということで離れを明け渡し、母屋の2階に移らなければならなくなったのです。

 母屋の1階には持ち主のご家族と、やはり東京から疎開してみえたお身内のご家族が住んでいらっしゃいました。そしてお台所やお手洗い、お風呂場など水回りはすべて1階にあります。私たち家族はその1階の水回りをほかのご家族と共同で使わなければならないことになりました。明るい性格の姉は持ち主のご家族と打ち解けておりましたし、私もあまり不便を感じませんでしたが、明治生まれで都会の暮らししか知らない、正真正銘の世間知らずである母にとりましては、気詰まりで情けない日々であったのだろうと思います。しかも戦争という途方もない現実に直面して先の見通しも立ちません。大声で泣きわめきたかったでしょうに、母は一度も愚痴をこぼしませんでした。そんな張り詰めた気持ちが終戦の詔勅と同時に解放され、同時に東京の自分の家に帰りたいという気持ちに直結したのでしょう。

 焼け野原には度重なる空襲を潜り抜けて九死に一生を得た人々が、焼け残りの瓦屋根やトタン板などで補強した防空壕の跡とか、激しい炎にも耐えた古風なお蔵、或いは急ごしらえのバラックに住み、空襲に怯えない日常を過ごしておりました。戦争さえなければ、人間は持てる知恵を駆使して自分なりの生活を、ある程度の礼節を弁えながら営むことが出来るのです。戦争さえなければ人間は、未来を目指すことが出来るのです。

 その頃私の父は、我が家のあった場所から程遠からぬ地域の焼け残ったお宅に身を寄せておりました。このお宅はご家族全員が疎開なさっていたため、空き家にしておくのは不安なので住んでいて欲しいと、焼け出された父に声をかけてくださったのだそうです。上京した母と私も、その夜はこのお宅の父が暮らす部屋で枕を並べて休みました。

 おそらく父は早速、焼け跡に家を建てるべく奔走したのだと思います。年が明けた1946(昭和21)年2月。雪の降る日に私たち家族4人は以前の場所に新築した、木の香りの漂う二間の家に疎開先から戻ってくることができました。父の話では施工は熊谷組で建築費は3万円だったそうです。新円切り替えの発表が昭和21年2月16日夕刻で、翌17日から預金封鎖だったそうですからぎりぎりで間に合ったのでしょうか。確認しておけばよかったと76年経った今、少し後悔しております。

 そんな大混乱の戦後を、私たち当時の子どもは屈託なく過ごしておりました。母がありあわせの布切れで作ってくれた抱き人形とお手玉が唯一の遊び道具。遊び場所は近所に広がっている焼け跡です。

 そういえば焼け跡には宝物がいっぱい埋まっておりましたっけ。家屋は跡形もなく焼けてしまっているのですが、火に強いタイルや陶磁器やナイフ、フォークなどは無傷で土の下から出てくるのです。「あ、お皿だわ!」とか「きれいなタイルがあったァ」とか、私たちは宝探しに夢中になったものでした。

 1946年(昭和21)8月はそんな、夢のように開放的な夏だったのです。 
 

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(左)現在の銀座四丁目交差点。和光はそのまま残っていますが、右の三越はひどく焼けております。
(右)永田町でしょうか。真ん中は首相官邸かと。
なお、こちらで、空襲直後の神楽坂・飯田橋近辺の写真をご覧になれます。
http://kagurazaka.yamamogura.com/tokyo-airraid/

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竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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