竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第20回 8月15日

 改めて気がついたことがあります。私、身近な自然界の常識についてまるで知識がないということに。

 命に関わるような猛暑が少し落ち着いて、朝の散歩も、高原に吹くような、ひんやりとした風を心地よく感じながら稲穂の垂れる田んぼの脇道を歩いておりますと、今まで見たことのないとがった三つ葉の植物を見つけました。傍らに小さな白い花も咲いております。そして、道に近い所の葉は細く針のようにとがっておりますけれど、中ほどの稲より背が高く伸びている葉は幅も広く、ちょっと見には里芋の葉のように見えました。でも、なんとなく親近感のある葉っぱ。初めて見る植物ではあるけれど、どこかで見かけたような......。

 思い出しました。沢瀉(おもだか)です。旗本・水野十郎左衛門の家の紋所です。縦長の三角形をした葉を図案化した形のいい紋です。間違いありません。

 早速ネットで確認いたしました。まさしく沢瀉。もうもう私、気持ちとしては欣喜雀躍。大袈裟でなく、世紀の大発見をしたような気分になっておりました。だって、紋でしか知らなかった植物らしきものが本当に存在したのですから。しかも私の散歩道に。

 予想もしないことでした。当地には沢瀉なんぞ珍しくないとおっしゃる方が圧倒的ですが、私と致しましては生まれて初めて出会い、自力で沢瀉だと見極められた植物なのですから。喜びだって長く継続いたします。それに、なんといっても歴史上の人物の中では5本の指に入るほど気になる人物、水野十郎左衛門成之の紋所でございますもの。

 水野十郎左衛門は江戸時代前期の旗本ですが、祖父は福山藩10万石の藩主で徳川家譜代の大名でした。かなりの傑物らしく数々の武勲を立て、文化面にも造詣の深い名君だったようです。88歳で亡くなっておりますが、没後は徳川二十八神将の一人として日光東照宮に祀られています。従いまして水野家は名家ということになりましょう。

 父成貞は三男だったので分家して三千石の旗本となりました。かなり華やかな人生を送った末に、長命であった父勝成より早く48歳で亡くなっております。そして当の十郎左衛門成之。数々の奇行で名を馳せ、名家を断絶に追い込んだ問題児です。どんな奇行かと申しますと、幕府、つまりその時の政府ですね、偉い人たちが定めた、直参の旗本はかくあるべきという掟を逆手にとり、その裏をかくような行動を繰り返していたのです。

 同じ身分の仲間と派手な装いをして徒党を組み、江戸の繁華街を闊歩しては相手かまわず喧嘩を売る。刃傷沙汰は日常茶飯事です。なにしろ徳川家直参ですから将軍家の威光を振りかざせば人を2、3人斬ったって「斬り捨て御免」で済ますことができます。事と次第によっては、幕府が彼らの罪を隠蔽するために大名家を取り潰すようなことだってやってくれます。つまり怖いものなしです。

 これ、刑事ドラマなどでもよくあるパターンではありませんか? 政治家とか或いはその子息とかが不祥事を起こして、刑事たちの必死の捜査で罪が暴かれようとすると突然大きな力が働いて事件そのものがなかったことにされてしまう、なんて結末。

 でも水野十郎左衛門は最終的に捕らえられ、切腹を命じられました。しかし彼は最後の最後まで幕府の掟に背きます。評定所に呼び出されたときの服装は、幕府が取り決めた旗本としての礼に適ったものではありませんでした。派手な装いのうえに髪の手入れもせず、不作法な姿で公的な席に出てきたのです。さらに武士なら当然心得ているはずの切腹の作法も滅茶苦茶で、与えられた腹切り刀の切れ味を自分の足を傷つけて試してから腹に突き立てたと伝えられております。立会人たちはさぞ狼狽したことでしょう。旗本としての矜持を示すことなく、あえて立派ではない死にざまを自分自身で演出して34歳で死にました。なぜ?

 本来旗本とは主人となる人物の旗の下に集まり、一命を賭して戦う正義の戦士だったはず。しかし、それは戦場なればこその正義、平和の世では通じません。とりあえず旗本の身分は保証されましたが、自分たちの能力を示す仕事はなくなってしまいました。飼い殺しです。徳川家のお荷物です。彼は閉塞感、焦燥感にかられた揚句、有り余るエネルギーを蛮行に費やし、進んで自分を追い詰めていったのではないかと思います。褒められたことではありませんが、哀れな気も致します。戦に翻弄された人生だったということでしょう。

 いつも通っている道なのに、偶々田んぼで沢瀉を見つけた日が8月15日、終戦記念日でした。70年余り前、若者の多くが敗戦に遭遇して生きて行く道の方向を見失いました。飛躍するようですが、私の脳裏では沢瀉から沢瀉の紋所を経て、ごく自然に水野十郎左衛門へと繋がっていったのです。いつの世でも戦争で得をすることなんて一つもない、と改めて感じた一日でした。

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田んぼの沢瀉(おもだか)と、
水野家の紋所「みずの沢瀉」

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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