竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第33回 都電が走っていた頃

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに心から安堵しています」

 昨年12月、85歳のお誕生日をお迎えになった上皇陛下がお述べになったお言葉の一節です。不肖私、近頃、これほど共感を覚えたご発言は他にございません。

 どんな正義を掲げようとも戦争の直接的な目的は単に人を殺すことでしかありません。殺さなければ殺される。一人の人間が1日24時間、戦争が続く限り1秒の休みもなく被害者と加害者を背中合わせにしてその身に負い続ける。それが戦争というものです。そして勝者も敗者も得をしない。それどころか100年経ってもなお精神的にも肉体的にも深い禍根が残る。それが戦争です。

 上皇陛下は御幼少の砌(みぎり)、第二次世界大戦の枢軸国であった大日本帝国の皇太子であられました。物心つかれた頃の日本はすでに敗色濃く、庶民同様、空襲に怯える日々をお過ごしでいらしたことと存じます。ただ庶民の子どもと違う点は、得体のしれない様々の大きな不安がそのまだ育ち切っていない小さな体に襲いかかっていたことです。そして、その不安は敗戦直後、日本がGHQの支配下に置かれていた時期、さらには1951年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結し、翌1952年4月28日に占領解除となってからも続いていたことでしょう。そういう時期に、当時皇太子であられた上皇陛下は数え年で20歳を迎えられ、皇居で立太子礼の儀式が執り行われることになったのです。1952年すなわち昭和27年11月10日のことでした。

 当時、私が通っていた学校は赤坂見附から青山通り沿いを少し上がった住宅街にありました。立太子礼当日の午前中、全校生徒が沿道の所定の位置に並んで常盤松の東宮御所から皇居にお向かいになる皇太子殿下のお馬車をお迎えした記憶がございます。日の丸の小旗を振ることもなく、特に手を振ったり、声をあげたりすることもなく、ただ立っていただけ。敗戦後まだ7年です。国民一人一人に小旗を配る余裕は当時の日本にはまだなかったのでしょうし、国民一人一人も特別なイベントだからといって、はしゃぐようなこともありませんでした。私は中等部2年になっていたと思います。

 この道は東宮御所と皇居との往復には、その後もお使いになっていらっしゃいましたので、都電・赤坂見附の停留所で電車を待っているときなど、皇太子殿下のお車をお見かけすることがよくあります。交通規制などは特になく、黒いお車が三宅坂を下り、赤坂見附の交差点を通り抜けて青山通りを進んで行くのを「あら、皇太子さまお帰りね」などと、気軽にお見送りしながら友人たちと話し合っていたものです。皇太子殿下も特に周辺に気をお配りになるご様子もなく、もちろん手を振ったり、会釈なさったりということもなく、あちらも、こちらも至って淡泊に、それぞれの日常を当たり前に送っておりました。

 しかしながら、この青山通りも決してのんびりした光景だけが過ぎていたわけではなく、5月1日のメーデーの際には神宮外苑に集まった人々の長い行列が皇居前広場に向かって行進する道筋でもありました。当時のデモ行進は拡声器で音楽やゲキを拡散することもなく、偶に肉声のシュプレヒコールが漂ってくる程度でしたが、昭和27(1952)年のメーデーは、行進中からなんとなく殺気立っているような雰囲気が感じられました。赤坂近辺もこの頃は今のような高層ビルはなく、家が建てこんでもおりませんでしたから、お教室におりましてもなんとなく通りの気配が伝わってくるのです。のちに知ったことですが、死者2名、負傷者950名を出したといわれる「血のメーデー」です。前年の講和条約の効力が発揮され、占領下の日本から解放されたのが4月28日。その直後の惨劇でした。皇太子殿下の立太子礼は同じ年の11月。デモ行進の道筋とほぼ同じ行程をお通りになったわけです。平成が戦争のない30年であったことは、本当に喜ばしいことと、一国民として痛感しております。

 今回の126代天皇陛下のご即位に至る過程では、青山通りこそお通りになりませんでしたが、度々TV画面に映し出された現東宮御所から皇居に至るお道筋やその周辺は、赤坂にある学校に6年間通い慣れた道筋でしたのでことさら懐かしく拝見しておりました。現在迎賓館になっている旧赤坂離宮は当時、国立国会図書館として使用されていたところ。そこを右折して赤坂見附の交差点を左折し、三宅坂を経て半蔵門に至る道の左側には国立劇場がありますが、上皇陛下の立太子礼が執り行われた頃は、ワシントンハイツと呼ばれる米軍のキャンプになっていました。そして、この道にも都電がひっきりなしに通っておりました。私は毎日、牛込見附から赤坂見附まで江戸城外濠沿いを走る外濠線、通称3番で通学しておりましたが、御代替わりのお蔭で、思いがけなく60年以上も前の記憶を甦らせることができ、楽しい一日になりました。

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都電の外濠線(通称「3番」)。
上智大学のグランド脇(左)と、赤坂見附から四谷にかけての風景(右)。
【写真提供:はーさん】

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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