竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第35回 お待ちしています

 5月から6月にかけて季節外れの暑さ寒さが交互に襲ってまいりました。不定愁訴に悩むと同時に、世界は、人間は、この先どうなるのだろうと、分不相応な課題を抱え込む日々が続いております。

 地球温暖化の影響で南極、北極の氷や、シベリアの凍土も溶けているとやら。年々海の面積が広がり、2050年には水没面積が内陸にまで達して、世界中の文化は滅亡するであろうという説まであるとも聞きました。たった30年ですよ。高齢者には関係なくても、身近にいる人たちの多くには直接襲ってくる恐怖です。

 そこへもってきてわが日本国の内側ではほぼ連日、幼児虐待、高齢者による交通事故の痛ましい報道が届きます。これまでも、まったくなかったわけではないでしょうが、これほどまでに救いようのない事件が、ごく一般的な庶民の生活の中で日常的に起こっている現実に震撼させられます。

 さらには人生100年時代を迎え、年金だけでは安穏な老後の生活は望めないから2000万円貯金しろと、日本国の金融庁からのお告げです。ヒエーっと悲鳴を上げそうになりましたが、なんと日本人の貯蓄額の平均は2956万円もあるそうですから、お告げもそれほど突飛な金額ではないのかもしれません。

 ところが、その金額はごく少数の高額所得者による貯金額を合算して出た平均額であることが分かり、その格差にまたまた驚いてしまいました。因みに貯蓄額100万円未満という回答が24.7%もあるそうです。

 その後、かの財政トップ氏は、出せと命じたはずの書類なのに提出されても受け取らないと、胸を張って宣言なさいました。不思議なことをおっしゃるお方だと思いましたが、人生100歳時代の老後は、年金のほかに2000万円必要という例の宣言を帳消しにするための苦肉の策のようです。参院選を控えて極力マイナス点を出したくない与党内の意見を、さすが強気のトップ氏も受け入れざるを得なかったのでしょう。地球温暖化の恐怖よりもまず、日本の前途が思いやられた政府の対応でした。

 かくて日本も世界も問題山積ですが、都会を離れてのんびり田舎で余生を過ごし、農耕を源とした日本文化について考えてみようなどと、柄にもないことを思いついて移住したはずの私自身も、なぜか難しい宿題をいろいろ抱える羽目に陥っております。たとえば年ごとに人口が減ってゆく地方を活性化するにはどうすべきか? といった、これまでの私にはまったく無縁の課題を突き付けられる日々なのです。

 空き家が増える一方にも拘わらず、田畑が宅地になり、新しい家が次から次へと建ってゆきます。結果的に人口は横滑りするだけで一向に増えませんし、市民の就職や町の店舗の活性化にもつながりません。老朽化した文化施設の復旧作業はなかなか進まず、役に立たない陳腐な建造物が新築されるといった具合。

 とはいえ、その現実を悲観しているわけではありません。今まで想像もしなかった状況に私ごときが、なぜか関わり始めている不思議。とにかく毎日が新鮮で、面白いのです。その原因は、生涯の大転換を80歳で実行したこと。これに尽きます。高齢者予備軍になった60歳でもなく、後期高齢者待機組の70代でもなく、カウントダウンに入った80歳まで待ったことで、私自身、迷わず自分の来るべき未来についての見極めをつけられるゆとりが出てきたからだ思います。

 もちろん、当地の皆様のごく自然な温かいとりなりが、よそ者の私をリラックスさせてくださっているのですが、同時にやや時代離れした土地柄も、まるでタイムスリップしたようで、時代小説を書き、伝統芸能に親しんでまいりました私といたしましてはなんともうれしい環境なのです。それに、どんな会合に出ましてもほとんどの場合、私は最年長でございますから新参者にも拘らず遠慮などいたしません。なにしろ所の長老といえども戦後生まれでございますからね。本来、年齢には格別の意味などございませんけれども、80歳になりましてから私、年齢は年輪と同じで、一定の値打ちを有すると考えるようになりましたので。

 そんな環境の中で地方自治に携わる行政の方々とのお付き合いも生まれ、一緒に土地に根差した文化の継承について考えたりもいたしますし、高校生から突然、中島敦著「山月記」についての感想を求められたりすることもございます。さらには50年以上も前に読んだ三島由紀夫著「文化防衛論」について、ちょっと口を滑らせたところ、ぜひ、それについて解説して欲しい、と言われてしまい、今更逃げ出すわけにもいかず、目下、懸命に勉強のしなおし中でございます。でもお蔭様で、若い頃の解釈がいかにいい加減であったかを知るいい便(よすが)になりました。

 年を取るって思っていたより楽しゅうございますよ。心が解放されるからでしょう。70代待機組の皆様、安心して80代へ突入なさいませ。

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加賀のお隣り、越前の古刹・本覚寺さんの蓮の花。葉に宿る雨の一粒が水晶のように見えます。
古今集~僧正遍昭の歌「はちす葉の濁りに染(し)まぬ心もてなにかは露を玉とあざむく」そのままでした。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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