竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第36回 我が闘争

 体重が2キロ増えました。

 移住して1年間は仮越しのアパート住まいでした。その間は東京にいた頃と全く変わらなかったのですが、昨年12月にやっと終の棲家が完成して落ち着いた途端、たった半年の間に見事に太っておりました。と、申しましても私の体重は40年余りほとんど変わらず、40代の時に作った白いジーンズを70代になってもはいておりましたから、元々の標準体重に戻っただけのことなのです。ただ、ここ2年程標準体重より2キロ減っておりましたので、まあ、これが80歳になった証明かな、と軽く考えておりました。しかしながら実際に体重が元通りになってみますと、年齢と体重には格別の因果関係はなく、大きな要因はやはり自分で見つけた終焉の地に落ち着くことができたという安心感でございましょう。
 
 それに食欲。毎日三度三度きちんと食事をとる習慣は変えておりませんし、食べる量が間違いなく増えております。仕方がありません。おいしいのですから。特に野菜。ご近所の方が穫れたてのお野菜を届けてくださいます。まだ寒さの残る3月ごろには緑色の葉が元気に突っ張っている立派な大根や頑丈な体つきをした緑あざやかな葉つきのブロッコリーを頂きましたし、長ネギは畑から自分で抜く経験もさせて頂きました。
 
 夏になってからは、散歩をしていると呼び止められて、ご家族の朝食用に採っていらしたのであろうキュウリやナスやトマトを、軽トラックの荷台から取り分けて手渡してくださることもあります。お料理屋さんでしか食べたことのなかった山菜に至っては、揚げ物の苦手な私のためにわざわざ揚げてから届けてくださることもあります。亡き父の言葉を借りれば「冥利に尽きる」お扱いということになりましょう。
 
 新鮮なキュウリや長ネギを刻んでいる時のシャキシャキという手ごたえは実に気持ちのいいものです。日常的なストレスなんぞあっさり吹き飛びますね。こんな食生活を送っているのですから体に悪いわけはないのですが、ただ一つ、数十年来抱えている障害だけは新鮮な野菜をもってしても快方に向かってはくれないようで困っております。
 
 コレステロールです。これといった持病はなく、年に1回受ける健康診断でも特別な支障はないのですけれど、コレステロールの数値だけが異様に高いのです。初めてホームドクターからそれを指摘されたのはたぶん50代だったと思います。早速処方して頂いた薬を服用いたしましたら数値は一気に下がりましたが、次の検査の時は再び上がり始めておりました。それと同時に体のあちこちに痛みを感じるようになったのです。初めは歯茎でした。

 奥の方の歯茎がチクチクと痛むのです。いよいよ老化現象か? 歯周病とやらになって次々と歯が抜けて行くに違いない。遂に入れ歯だ! などと妄想しつつ長年お世話になっていた歯医者さんに伺いましたところ、歯にも歯茎にも悪いところは一つもないとの診断がくだされました。一応安心はしたのですが、その後も体の痛みは止まらず、遂には全身が鎧を着込んだように固まってきてしまいました。そしてとどめは、目の奥の方にまで痛みが浸透してきたことです。

 眼球が固まっちゃう! 恐怖でした。その時です。偶々見つけた新聞記事にドイツ発として、コレステロール値を下げる薬の副作用で体が痛くなることから発売が禁止された、しかし日本では現在この成分を含む薬は発売されていない、とありました。すぐにホームドクターにそれを告げ、とりあえず服用を中止して、副作用の恐怖からは脱することができましたが、以後、どの薬も合わないため長い間、コレステロールの薬は飲んでおりません。
 
 現在は移転先の医院で定期的に診断を受けておりますが、コレステロール値は相変わらず高い。そこで、かなり昔のことなので薬も進歩したろうし、私自身も高齢になって体の反応にも変化があるかもしれない、試しに薬を飲んでみようかとドクターに相談いたしまして処方して頂きました。
 
 一週間飲みました。ダメでした。ひどい倦怠感に襲われるのです。初めは夏風邪でもひいたかな、と思っていたのですが、首筋や背中が凝ってきたり思考が働かなくなったりしたことから薬の副作用だと思い当たり、ドクターに報告いたしましたところ薬を変えてくださいました。でも、やはりダメでした。症状は同じ。私の場合、コレステロール値が高い原因は遺伝的な体質によるもので、食生活の影響ではないとのこと。自分なりに調べてもみましたが、有効な対策はないようでした。
 
 ならばどうするか。女性の健康寿命74.79歳をとうの昔に過ぎた私の目標は"元気で死ぬ!"です。この目標を邪魔されないよう令和元年夏、改めてコレステロールとの闘いに立ち向かおうと決意した私でございます。

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ピカピカの野菜たち。
刻んでいるときのシャキシャキという音と手ごたえが堪りません。

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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