竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第40回 言葉の効能

 先頃あるニュース番組で、電車内の優先席についての興味深い報道を見ました。

 若い女性が乗車するなり、入り口近くの優先席に陣取ったのを見かねた隣席の男性がその行動を注意したというのです。それだけでしたら車内に空席を見つけて座ろうと移動しかけた途端、素早く横をすり抜けてきた青年に先を越されるような経験を幾度となくしている私などは、よくやってくださったと称賛したいくらいなのですが、この隣席の男性のやり方には少々疑問を持ちました。言葉で窘めたのではなく、手にしたタブレットの画面を無言で突きつけて見せたというのです。タブレットには、老人でもなく体に障害があるようにも見えない女性に対して、注意を促すというよりは嫌みを含んだ非難の言葉が並んでいました。一部にはかなり侮辱的な文言もあったようです。番組の司会者は、テレビでは発言を憚るような表現が使われていると断っていましたし、その文言の箇所は黒く塗りつぶされておりました。

 情けない。その男性は優先席に座ることを当然と思っている方でしょうから老人と自覚していらっしゃる人物でしょう。それならば一応の分別くらいはお持ちのはず。見知らぬ若者に公共交通機関内でのマナーを教えたいという勇気と侠気をお持ちならば、タブレットに侮辱的な文言を入力して相手に突きつけるなどという陰険な行為ではなく、口頭で注意なさるべきでした。それに引き換え、相手の女性は冷静でしたね。タブレットの画面をスマホに収めてインスタグラムでこの出来事を公表なさったのですから。

 この女性はこの時、気分が悪くて立っていられず、乗車すると一番先に目についた空席に座ったのだそうです。すると、隣席の男性の嫌がらせとも思えるような行動があった。お察しするに不愉快を通り越して恐怖さえ感じたとしても不思議ではありません。でも、タブレットの画面をスマホに収めることはできたのですね。恥ずかしかったのかもしれませんが、やはり口頭で気分が悪いことを告げられなかったものでしょうか? 便利な機器の発達で、人間同士のコミュニケーションが閉ざされていることにちょっと残念な気がいたしました。

 と申しますのも、私も電車内で似たような状況に遭遇した経験があったからです。今年の5月半ばごろ、東京メトロ車内だったと記憶しております。車内にはいくつか空席がありまして、私はもちろん、そのうちの一つに腰かけていて隣も空いておりました。すると次の駅で1人の若者が勢いよく乗り込んできて、私の隣の空席に素早く腰を下ろしました。そして、すぐにケイタイを取り出して小声で話し始めたのです。何を言っているのか聞き取れませんでしたが、とても気が急いているような話しぶりということは分かりました。

 あれ? こんなに堂々と車内電話? 少しは周りに気を配って頂戴! と私、内心不愉快でした。ところが次の瞬間です。電話を終えた若者が私に向かって言いました。「すみません。さっき、ちょっと足を挫いちゃって、今、友達に駅まで迎えに来てくれるように頼んだんです」

 納得です。万事解決です。不審、不快にかなり傾いていた私の気分は一気に晴れて逆にすっかり上機嫌になり、「あら、それはいけませんね。私もこの間捻挫しちゃって、まだちょっと痛いの」なんて、余計な告白までしてしまいました。

 事実、2週間ほど前、石段の濡れ落ち葉に滑って転び、左足首を捻挫していたのです。昔々、スキーで転んだことは度々あるが、それ以外で転んだことがない。さらに、雪煙を上げるような、凄まじい転び方をしても、不思議と怪我はしなかったというのが私の長年の自慢でした。その自慢、私にとりましては錦の御旗にも等しい自慢が、80を過ぎた途端に無効になってしまったのです。ショックでした。

 見ず知らずの若者はちょっと微笑みながら軽く肯きました。ほんの束の間ですが、なんとなく、柔らかい雰囲気が生まれたような気がいたしました。

 まもなく若者はぴょこんと頭を下げると、2つ3つ先の駅で降りて行きました。私はその後ろ姿に「お大事に」と声をかけました。

 それだけのことです。それだけのことですが、素早く空席に座を占めた上にケイタイで話し始める不謹慎で不作法な若者への嫌悪感は全く消えて、周囲への配慮を欠かさない行き届いた子、という印象だけが残りました。その功績はひとえに誰へともなく、いち早く事情を告げた彼の勇気にあります。

 言葉って、けっこう優れものですよ。ヘイトスピーチ、暴言、讒言ばかりでなく、たまには平凡で、使い勝手のいい日常語を使ってみませんか? ね、スマホに目を落としたまま電車に乗り込み、すぐ傍らにいる老人を突き飛ばすように追い越して空席に座り込む若者さん! それからタブレットに頼り過ぎの老人さん!

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ちょっと面白い蜘蛛の巣。
(写真:のね)

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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