竹田真砂子「加賀便り 新しき身辺整理」|新潮講座

第58回 人生は冒険である

 大きなことを言うようですが、30代後半に人生の舵を切り替えたとき私は「人生は冒険である」と思っていました。

 その頃、世界で初めて五大陸最高峰の登頂に成功した冒険家の植村直己さんというお名前を知りました。私にはまったく縁のない話題でしたが、なぜか私は植村さんの存在が気になったのです。そして、やっと文筆で身を立てる道筋のついた44歳前後、「世界初犬ぞり単独行による北極点到達」などの輝かしい業績と共に書籍や映像などで知る、そのお人柄も含めて尊敬するようになりましたが、程なくしてマッキンレーで消息を絶ったという情報に触れました。お目にかかったこともない方ですのに、もったいなくて、悔しくて泣きました。その頃受けたインタビューで、尊敬する人として植村直己さんのお名前を挙げた覚えがあります。

 今、80歳を超えて人生の最終期を迎えるにあたり、「人生は冒険である」という思いを新たにしております。なにしろ生まれて初めて迎える人生の最終期ですから、見当もつきません。見当はつきませんが冒険の最終地点が「死」であることは揺るぎませんし、そこに到達しなければ私の冒険の目的は達成されないことも分かっております。そう考えますと見知らぬ土地に移住して、思いがけない経験をすることも新鮮で、毎日が面白くなります。

 そんなある日、知人から本が送られてきました。タイトルは『アフリカの難民キャンプで暮らす ブジュブラムでのフィールドワーク401日』。著者はオックスフォード大学国際開発学部准教授・小俣直彦氏。

 どう考えても私向きの本ではありませんが、思い当たる節がありました。この方のお母様から以前、ちょっとお話を伺った覚えがあります。お母様は日本舞踊評論家で上背のある、ほっそりとした和服美人。外見と同じようにお気持ちもすっきりとしていて、江戸前の潔さを感じさせる方なのです。その方が時々「イギリスにいる息子ともう10年も会っていない」とか「息子は今アフリカにいます」とか、ポツン、ポツンとおっしゃることがありました。私が「アフリカでなにをなさってますの?」と伺うと「何してるんですかねえ」とあっさりした答えが返ってきます。だんだんに、どうやら学術的なお仕事をなさっているらしい、という程度のことは分かってまいりましたが、今回、頂いたご著書を拝読いたしましたら、想像を絶するような経験をしていらっしゃったことが分かり、驚いたり、尊敬したりしているところでございます。

 そもそも、なぜ著者、小俣直彦氏が難民問題に取り組むようになったかというと、「大学在学中の1990年代前半にユーゴスラビアでの民族紛争、ルワンダでの大虐殺などをメディアを通じて目の当たりにした私は、人道支援、開発援助に深い関心を抱くようになった」からだそうです。そしてその道に就くべく国際機関に就職する意思を固めたところ、それには「ある程度の実務経験を持ち、かつ大学院で修士号を得」なければならないことが分かったとか。でも、日本にはそれに該当する大学院がなく、大学卒業後、当時、発展途上国向けの国際開発金融を扱っている大手銀行に就職なさいました。ところが希望する業務にはなかなか就けない。それで留学を決意し、数年間の貯金と退職金と友人からの借金で学費を捻出してアメリカの大学院に進んだということです。

 その際、当然ご両親は将来のこと、費用のことなど心配なさったのでしょうが、最終的には、自分で決めたことなら自分で責任を持て、というような意味のことをあっさりとおっしゃったようです。お母様の容姿がそのまま目に浮かぶような潔い決断でご本人の進路が決まり、それから現場での支援活動が始まるわけですが、数年を経て、様々な「制約の下での実効性のある難民援助の在り方とはどのようなものか」を考えるようになり、もっと難民問題に貢献していくためにはプロの学者にならなければと一念発起してロンドン大学の博士課程に入学なさったのです。

 今回出版された本は、その博士論文のために実地調査に出向いた難民キャンプでの詳細をまとめたもので、失礼ながら学者さんには珍しい、分かりやすい、親しみやすい文章でつづられています。さあ、どうだ、オックスフォードだぞっ!と大上段に振りかぶったところが少しもないのです。

 さらに私が共感を覚えたことは、スケールは全く違いますが、この方が研究者として生きることも、時には命の危険さえある現地での生活も、詰まるところ冒険なのではないかと思えたことでした。「自分の意思で決めたことなら好きにしなさい」というお母様のお言葉をそのままに生きていらっしゃるのでしょう。

 日本では難民問題についてあまり積極的ではないような気がいたしますが、今や地球は「物理的」にも政治的にも狭くなってきております。いつまでも対岸の火事ではいられなくなるのではないでしょうか。

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小俣直彦『アフリカの難民キャンプで暮らす ブジュブラムでのフィールドワーク401日』(こぶな書店/1,600円+税)

竹田真砂子
(たけだ・まさこ)
作家

 1938年、東京・牛込神楽坂生まれ。法政大学卒業。1982年『十六夜に』でオール讀物新人賞を、2003年『白春』で中山義秀文学賞を受賞。現在、時代小説を中心に活躍。京都「鴨川をどり」など、邦楽舞台作品の台本なども多く手がける。2007年、谷崎潤一郎『春琴抄』を脚色したフランス語による邦楽劇『SHUNKIN』は、パリ・ユシェット座で上演され、話題となった。
 中山義秀文学賞選考委員、独立行政法人・日本芸術文化振興会(国立劇場)評議員、および歌舞伎脚本公募作品選考委員なども務めた。
 近著に、新田次郎賞文学受賞作『あとより恋の責めくれば――御家人南畝先生』(集英社)、『牛込御門余時』(集英社文庫)、『桂昌院 藤原宗子』(集英社)、『美しき身辺整理――“先片付け”のススメ』(新潮文庫)などがある。
 2017年10月、生まれ育った神楽坂を離れ、石川県加賀市を終の棲家と定め、移住した。

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