米坂線と8月15日

 jikokuhyou-syouwashi.jpgこういうタイトルをつければ、内容の察しがついてしまいますが、最後までお付き合いください。8月15日にはこの話題に触れないわけにはいきません。宮脇俊三さんの数多くの著作の中でも、『時刻表昭和史』は僭越ながら同じ鉄道ファンとしてショッキングな本です。時刻表との関わりを書きながら、それがそのまま宮脇さんの半生を語っているのです。私も長年『時刻表』を愛読していますが、『時刻表』で半生を語ることはできません。

 私が最初に 米坂線に乗車したのは、昭和46年11月21日です。スタンプ帳に押してある 羽前椿の駅スタンプが、乗車日を証明するほぼ唯一の証拠です(この駅に降りた記憶はありません)。カラーネガで撮影した写真が20枚ほどあります。スキャニングをしたものの、場所の特定がまだできていません。当時の時刻表、SL撮影用に出回っていた簡単なダイヤグラムなどがあるにもかかわらず、その日の行程さえ、確定できていません。
 上野から夜行で米沢に向かい、早朝の米沢発の列車に乗りました。また帰りは坂町14時21分着の列車にどこかで乗らないと、羽越本線、上越線を乗り継いでその日のうちに上野まで帰り着きません。どこからの帰りに急行「佐渡」に乗った記憶がありますが、どうやらこの時の記憶らしい。
 時刻表を見て、ダイヤグラムを見て、撮影した写真を見て、地図を見て、さらにネットに公開されている動画などを見ても、記憶の扉は開きません。40年という月日の重みを痛感しています。

 あらためて『時刻表昭和史』を読んでみると、宮脇さんもご自分の記憶と『時刻表』を照らし合わせて、呻吟しています。この本を書かれたのが昭和55年。昭和20年は35年前ということになります。記憶と列車時刻の擦り合わせは、鉄道ファン特有の楽しみと呻吟の素ですね。
 昭和20年8月15日正午、宮脇さんは 米坂線今泉駅前広場で玉音放送を聞きました。そして

「昭和二〇年九月号の時刻表によれば、私の乗った米坂線の列車は今泉発13時57分発の坂町行109列車であったように思われる。けれども、私は今泉発12時30分頃の列車に乗ったような気がしてならない。天皇の放送が終わると、待つほどもなく列車はやってきたのだ」

 もし12時30分頃の列車に乗ったとすると、疎開先の村上に着いてからの記憶とも整合性がつく、とその後のくだりに書かれています。しかし『時刻表』との折り合いはつきません。宮脇さんでさえそうなのだから、私の記憶と『時刻表』の折り合いが悪くても、そう悲観したものでもなさそうだ。

 2度目の 米坂線乗車は、平成19年8月15日でした。この時は「小説新潮」の企画で、なんと宮脇俊三さんの長女灯子さんと今泉に行きました。ima1.jpg  正午に今泉駅前広場に立ちました。名著の名場面にお邪魔してみたというわけです。ご興味あれば、「小説新潮」平成19年10月号を図書館などで読んでみてください。その日も猛暑の日だったと記憶しています。
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編集部 田中比呂之(ひろし)  

2013年08月15日   東北   タグ : 宮脇俊三, 米坂線

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