関東大震災の起こった大正12年は、まだラジオ放送も始まっていませんでした。そんな日本のメディア状況だったのですが、未曾有の大震災を映した動画が残されていました。そこには静岡県小山町の様子が2分余り映されています。今日から3回、『関東大震災と鉄道』(小社刊)の筆者内田宗治氏にこの動画をもとにあらためて取材していただきました。
関東大震災の時に撮られた動画(iPadアプリ『関東大震災と鉄道』に所収)を見ていて、ある一連の場面が印象に残った。大きな工場が瓦解した様子が、やや長く写し出される。そこには棺や骨壺が並んでいる。次の場面では、蒸気機関車に牽かれた旅客列車が駅に停車している。客車の一部が少し傾いているが、列車全体が避難所になっているようだ。客車の窓には洗濯物がぶら下がっている。さらに見ていくと、人々は線路の上にバラックを建て、そこで雨露をしのいでいたりもする。線路の敷かれた鉄橋の上を、避難民が行き交っているシーンもある。
都心の被害の動画はテレビなどでも見たことがあるが、地方の様子、それも鉄道施設を被災者が利用している動画を見たのは、初めてだった。冒頭のタイトルには「全滅せる小山町」とある。
画像3点 iPadアプリ『関東大震災と鉄道』より
明治39年竣工、関東大震災の動画に出てきた森村橋
現在のJR御殿場線の駿河小山駅(昭和27年までの名称は駿河駅)と、その近くの富士紡績小山工場の様子である。動画に登場した鉄橋は、もしや登録有形文化財として現存する「森村橋」かと思い、現在の写真と照らし合わせてみると、まさにそうだった。8月中旬、現地を取材に訪れてみた。
まずは、駿河駅や小山工場の概要を述べておきたい。関東大震災において、一つの工場が壊滅し、その様子が最も大きく報道されたのが、駿河駅周辺にあった富士紡績小山工場の被害である。震災翌々日、9月3日の大阪時事新報(戦前の五大新聞の一つ)では、「富士紡工場倒壊 八千の男女工惨死 阿鼻叫喚の修羅場を現出」との見出しが躍っている。
実際の富士紡績小山工場での死者は8000人ではなく、123人だったが、ラジオもなかった当時、流言蜚語が錯綜した。同じく3日の大阪毎日新聞では、「品川が津波で全滅」とか、「秩父連山が大爆発」などといった、大誤報も散見される。
この時、同工場の被害者数が、デマとして増幅されていったのは、東海道本線の車窓風景で、小山工場周辺の様子が、際立って印象に残るものだったためだと思う。大正12年当時は丹那トンネルが未開通で、東海道本線の列車は、現在の御殿場線を通っていた。
駿河駅は、鮎沢川の谷が、少しだけ広くなった地点にある。その周辺に、当時関東周辺では最大の紡績工場といわれた富士紡績の第一~第五工場が立地していた。その工場に、今ではちょっと信じられないが、女工員5500人を含む約8000人(大正11年のデータ)が働いていた。
車窓の案内本としてベストセラーとなった『汽車の窓から』谷口梨花著(大正7年)から、この部分を引用すると、
「もと微々たる山間の僻邑であったが、富士瓦斯紡績会社の工場を此処に置くこととなってから、俄かに山中の一都会と化した」
とある。同工場の建設開始は明治29年で、豊富な水力を発電に利用できるため、この地が選ばれた。さらに引用を続けると、
「高山流水人里離れた斯かる山中に、数千人の職工が営々として力作して居る大工場があるとは、文明の力の自然を圧する威力も思わるるではないか。夜汽車で此処を通過する時など、(略)煌々たる電燈は夢の如く竜宮城を現出して、目を見張らずには居られぬ光景である。」
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<続く>