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関東大震災と鉄道 4 倒壊した富士紡績小山工場 内田宗治

 昨日に続き、内田宗治氏の駿河小山取材レポートです。谷口梨花が『汽車の車窓から』で「煌々たる電燈は夢の如く竜宮城を現出して、目を見張らずには居られぬ光景」と描写した筋紡績小山工場は、一瞬にして瓦礫となりました。

 駿河駅近くの富士紡績小山工場には、瓦屋根、煉瓦壁の大きな建物がずらりと並んでいたが、大正12年9月1日午前11時58分、突然の第一震で崩れかけ、数分後の第二震で、大爆破のような音を立てて瞬時にして倒壊してしまった。koujyou.PNGiPadアプリ『関東大震災と鉄道』より

 第一震で建物の外に避難したため助かった人も多いが、逆に第一震の後、仲間を助けにいこうと建物に入り、第二震で圧死した人もいるという。広い敷地内、見渡す限りの建物が崩れ果てた姿を見れば、工場内で8000人が死亡というデマが飛び交うのも、無理もない気がする。
70th.jpg『小山わが故郷 小山町制施行七十周年記念誌』より
 今回、小山町教育委員会生涯学習課の金子節郎さんと、金子さんに紹介していただいた大箕正之さん(85歳)に話を伺った。大箕さんは、90年前の関東大震災こそ体験されていないが、小さい頃から震災の話を聞き、また、戦前からの小山町の様子を見てきた方である。関東大震災の動画をiPadで一緒に見ながらの話となった。oomi.jpgお話しを伺った大箕正之さん。ご自身が整備された関東大震災犠牲者の塔婆塚(甘露寺)にて。
「壊れた工場の映像は、火事になっていないので、第一・二工場の方ですね。第三・四工場は、転倒した精紡機が空回りして、それで発火したんです。森村橋は、激しい揺れでもびくともしなかった」
 御殿場線の電車で、駿河小山駅から御殿場方面に向かうと、右手に鮎沢川に架かる40mほどの古い鉄橋が見える。それが明治39年製の森村橋で、駿河駅(現駿河小山)から伸びる線路がこの橋を渡り対岸の第一・二工場へと続いていた。線路の横を人が歩けるスペースを取った軌道人道併用橋である。第三・四工場のほうは、駿河駅に隣接する形で、北側に広がっていた。
「私が小さい頃は、工場内へと走る機関車に乗っけてよーというと、たまに短い距離を乗っけてくれて、それが楽しみでした」(大箕さん)。
 女工員たちの寄宿舎は、木造だったせいか、倒壊を免れた。夜勤明けで寝床についていた工員も多かったので、これはまさに不幸中の幸いだった。小山町全体では、全壊446戸、半壊6903戸で、実に90%以上の建物が全壊または半壊で、家に住めなくなった。
「線路の上に避難してきて、そこで寝起きしているのは、地面はどこも地割れして波うってしまっていたためです。新たに地割れするかもしれない。いっぽう、砂利をしきつめた線路は、地割れがなく、雨戸をはずして敷けば、安心だったんです」(同)。
 このほか、戦前は、沼津の病院まで行かなければできない手術が富士紡績の病院でできたことや、町中が沸いた富士紡の運動会など、典型的な企業城下町として栄えた小山町の往時の姿をいろいろと伺った。
fujibouseki.jpg富士紡績の社員寮などに使われていた豊門公園西洋館
 紡績、製糸などの繊維産業は、かつては、日本のまさに基幹産業だった。その中でも有数の大企業の中心工場が山間の小山町にあった。駿河駅からは、線路が各工場へと伸び、貨車が頻繁に行き交っていた。戦後繊維産業は全盛期の力を失い、企業は多角経営などで生き残りを図ってきた。小山工場へ伸びていた線路はほとんどが撤去され、第一・二工場の敷地は、別会社のものとなっている。だが、町の高台にある豊門公園に移築された洋館や森村橋、それに道路となった軌道跡など、注意深く歩くと、大工場のあった町としての風格のようなものが、震災の記憶と共に、今も息づいているのが感じられる。
kantoudaishinsai.JPGiPadアプリ「関東大震災と鉄道」(発売ピコハウス)は、9月30日まで特価販売500円です。詳しくはこちらをご覧ください。
<続く>

2013年08月29日   関東   タグ : 御殿場線, 関東大震災

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