国鉄時代の信越本線高崎~長野間は、鉄道趣味以外でもよく利用した路線です。むしろ趣味以外で乗車している回数の方がずっと多いでしょう。前にも書きましたが、菅平に中学高校の施設があり、林間学校、スキー教室、クラブの合宿などよく利用しました。
大学時代もクラブの合宿地が志賀高原だったこともあり、長野まで「信州」や「妙高」に乗りました。「あさま」にも乗っていますが、どういうわけか印象が薄いですね。
団体行動だと勝手に途中下車するわけにもいかず、いま思い返しても高崎〜長野間で下車経験があるのは、松井田、軽井沢、上田ぐらいしか降りたことがありませんでした。横川はホームを散々うろうろした記憶はありますが、改札を出たのは新幹線ができてからでした。
というわけで今はしなの鉄道と名を変えた軽井沢〜上田の駅をいくつか訪れてきました。特にこの区間には田中駅があります。ずっと気になっていたのですが、ようやく下車する機会が巡ってきました。
田中という苗字は苗字ランキングの常に上位にいるのに、駅名となると現在はこのしなの鉄道の田中だけのようです。旧国名を冠した駅は、飯山線に越後田中、只見線に魚沼田中があります。「変種」では湯田中(長野電鉄)、元田中(叡山電鉄)などもあります。
さらに廃駅となると東武鉄道高崎線や北陸鉄道松金線に存在していました。まだまだ「田中」関連駅はありそうです。「田中駅めぐり」で本が1冊書けそうです。
さて9月の日曜日、快晴の軽井沢で新幹線を降り、しなの鉄道に乗り換えました。信濃追分で古い駅舎の写真を撮ったり、気持ちの良い風に当たったりして、小諸に向かいました。小諸駅は改札を出たことがないはずですが、何故か既知感がありました。ソースカツ丼がうまいと杉崎行恭さんからご教示いただいた駅前食堂はすでに閉店していたので、駅の正面にある蕎麦屋に入りました。
小諸駅ホームで変わった柱を何度も撮影してから、田中へ。田中は2面3線で、構内はかなり広い。以前三宅俊彦さんからいただいた絵葉書があります。3線かどうかは不明ですが、基本構造は変わっていないようです。ただしこの絵葉書の年代は不明です。
「妙高」や「信州」の通過する車窓からしか見ていなかったので、「こんな駅だったっけ」などと呟きなら跨線橋を渡りました。駅前に出て駅舎を見ると、何か足りない感じがしました。......屋根の上に駅名看板がありません。近頃のデザイナーズ系駅舎にはしばしば駅名がどこに掲げられているかわかりにくい駅舎がありますが、こういう木造駅舎には珍しい。この写真だけ見ると駅舎かどうかは不明ですね。
あらためて駅舎に近寄って見ると入口近くに縦書きの駅名看板がありました。しかも屋根付きです。蕎麦屋か老舗旅館風です。この縦書き蕎麦屋風駅名板を撮影していると、入口上にも駅名板があることに気づきました。いずれの看板も雨に濡れない場所で大事にされているということでしょうか。
駅横で煙草を吸っていると「臨時列車が来ます」というアナウンス。小諸寄りの歩道橋に上がって待っていると、えび茶色の電車がゆっくりと入ってきて停車しました。一瞬「いさぶろ・しんぺい」かと思いました。車内で食事を楽しめるという観光列車「ろくもん」でした。停車時間が長いので、ここで何か積み込んだのかもしれません。
歩道橋の上から「ろくもん」を撮影しながら、ここでも信州の爽やかな風に当たりました。眺めもよく、暑くもなく、寒くもなく、気持ちのよい時間を過ごしました。
このブログで何度も触れましたが、乗りつぶしをしていた約20年前は、先を急いで鉄道の旅をしていました。その時はいつかまたのんびりと思っていたのですが、還暦が近づいた今頃になってようやく先を急がない「心構え」ができてきたようです。
それもこのWebやブログ「悠悠自鉄」がきっかけになりました。過去と現在をつなぐ線路の上を往ったり来たりしながら、鉄道の楽しみを広げてきましたが、残念ながら今日でこの往来を休止しなければならなくなりました。
Web開業から1年半、ご愛読ありがとうございました。Webに貴重な写真・コレクションをご投稿いただきました会員の皆様には、再度御礼を申し上げます。またときどきでもご覧いただいてきた皆様にも感謝したいと思います。
ありがとうございました。
編集部 田中比呂之(ひろし)